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【感想文】ドビュッシーとラヴェル@芸術劇場4.13(前半)

先日、久しぶりに、一人でクラシック・コンサートに行ってきた。大学生の頃あたりは、かなり頻繁に様々な芸術に触れていたものだが、大学院に進んだ頃から、勉強で忙しくなり、いつの間にか遠のいてしまった。クラシック音楽だけでなく、クラシックバレエ、現代バレエ、絵画展、彫刻展、演劇など、古典・前衛問わず、場所も、色々な所に行った。
最近、またクラシック音楽を聴きに行きたくなり、詳しい友達から情報を得て、一人で行ってきた。2024年の目標の一つが「芸術に触れること」であり、その一つが再び詩を書き始めることであり、また、音楽を聴きに行くことも含まれているのである。
以下、コンサートの感想と、曲ごとの私なりのライナーノーツである。

父が趣味でやっている吹奏楽団やオケのコンサートであれば最近も行っていたが、いわゆるプロの楽団の演奏を聴きに行くのは久しぶりだ。芸術劇場での鑑賞も久しぶり。
どこでもそうだが、最初は、座席の位置やホールの大きさ、楽団の構成と規模、曲目、などによって、音との距離感に戸惑う。だがその戸惑いは、一曲目が始まってから感じる。

まず一曲目はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」。1892年~1894年作曲。あっという間に音に包まれる。サラウンド、という言葉がふと浮かぶ。その通り、まさに「取り囲まれている」。
大きな波のうねりのようなものはあるが、悪い意味ではなく、メリハリがない。滑らかな演奏、ということだ。タイトルの「午後」、この曲を聴いている「今」という意味での「午後」、どちらにも関係なく、ただただ、昼を過ぎて夕刻までの間の比較的早い時間帯の、微睡にも似たけだるさを感じる。
1912年には、ディアギレフ(興行師)がパリで主催したバレエ・リュス(バレエ団)が、ニジンスキーの振り付け・主演でバレエ化した。ちなみに、ディアギレフやバレエ・リュスは、ラヴェルとも関連している。

二曲目はこれもドビュッシーの交響詩「海」。1903年~1905年作曲。ドビュッシーの実際の生活の中でも、文字通り荒波の中で書かれた曲であるが、それが曲に反映されているかどうかはあまり関係ないと、ひとまず私は考えて、わきに置いておく。(どんなジャンルであれ、作品はその作られる過程が重要なのではないという立場。)ただ「律動づけられた時間と色彩」を音で体現した、というのはドビュッシー自身の言葉である。

第一楽章「海上の夜明けから真昼まで」。メロディにつかみどころがなく、すぐに次の(一定の)メロディ(動機・主題)に進んでしまう。(だがこれがのちに何度も繰り返される。)コントラバスの重低音に乗っかった、チェロの音色に、妙な懐かしさを喚起させられた。テーマ(主題)の一つには、和風なものもあるように感じた。そんなものが混じっているゆえの懐かしさ、なのか。交響詩「海」の初版楽譜の表紙には葛飾北斎の「富獄三十六景」中の図の一部を採用するように出版社に働きかけたというエピソードもあるが、ドビュッシーが、この曲において「和」を意識したという話は聞いたことはない。だが、少なくとも彼が北斎に「共感」し、その理由は北斎の大胆な構図の裏に綿密な計算があったことと、ドビュッシーもその曲作りにおいて、やはり綿密な構成・構築という技法を用いていたはずであり、両者ともその結果(作品)において、再び具体性を表現できた、つまりこの場合であれば、自然現象というものの光景や広がりを表出できた、こういった点にあったのかもしれない。

第二楽章「波の戯れ」。前半は、音に謎かけをされている気分になる。今度は「riddle」という言葉が浮かぶ。聴き手が音に挑まれているようだ。問いかけるようなメロディ「~どうだい?」と。何度も何度も。だが答えを与えるわけでもなく、後半へ。後半は、音が踊ったり、跳ねたりしている。これが、あたかも波が踊り、跳ねる感じを思い浮かべさせる。「波の戯れ」と言われれば、その通りだ、と思ってしまう。

第三楽章「風と海の対話」。この曲が仮に本当に「標題音楽」と、意図して作られたのであれば、きっと「風」と「海」を表す楽器がそれぞれ指定されていただろうと思う。だがとりあえず、あまり「対話」らしき表現を感じ取れず、それはそれでよく、構成に関していえば「不規則な規則性」がある。もしくはこの「不規則な」規則性は、第一楽章からずっと底に流れていた、といってもいい。危うい音の運び、ああ、もう少しでその綱渡りの綱から落ちる、という危ういところで、何とか落ちずに、何とか不協和を逃れて逃れて、進んでいく。

交響詩「海」は、現在においても「海の情景を描写した標題音楽」と言われることもあるようだが、同じ動機や主題が、複数の楽章にわたって現れるという「循環形式」が採られており、交響詩よりもむしろ交響曲に近い「絶対音楽」だ、というのが一応の定説のようである。
私自身は、標題音楽だと言われれば、ああそうなのか、と一旦は何も考えずに信じてしまうほど、この曲は巧みに「海」(そして各楽章の副題も含め)を表していると思う。
さらには、音楽は「時間芸術」である、ということを改めて感じさせられた。この「時間(芸術)」と、「海のうねり」の表現が、互いに互いへ向かってベクトルを持っており、それゆえにこそ、標題音楽とも受け取れると感じたのである。

ただ、この問題はさほど重要でなく、むしろ第一楽章から出現していた、一定の動機(モチーフ)または主題(テーマ)は、第三楽章まで、大体において(ドビュッシーに限らず、この時代のフランス独特の、というのか)危うさを底辺に伴いながら、繰り返し出現するという事実の方が重要である。そしてこの「繰り返し」プラス、先に述べた「不規則な規則性」でもって、この曲は成っている。それゆえ、かなりの斬新さを感じさせつつも、決して「綱から落ちる」ことのない安定性と、綿密さに裏打ちされた規則性の中で、聞き手は音の構成美を感じ取ることができるのである。~つづく~

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