【エッセイ】芸術についての走り書き
芸術受容の態度は、その目指すものが美的対象そのものであるべきであり、そのときにおいてのみ、作品の真の評価が可能となる。享受の対象が感情である場合(我々は気づかぬうちにこのような態度=ディレッタンティズムをとっている場合が多い)、芸術は享楽の刺激物として、作品は芸術以外の感情喚起ないし陶酔手段と異ならない。
私は真正なる芸術体験とはセンチメンタリズムと主知論の間にあるものであると考える。
ところで芸術作品は何を表現しているか。「そのようにみえたもの」と、理想(idea)-イデアにつながる、との中間を描いている。あるいはその意味内容は本質だけではない。理想化されたものだけでもない。それゆえ中間と言いきってよいのかはっきりしない。本質とは、あらゆるものの実際のすがた、それをそうならしめているところのものである。
あるいは、自分(創作者)の入りこみたい所、つまりそこにとどめておきたいものを描いている。入りこむというのはイコール外に出す、すなわち表現である。
しかし芸術が自己目的的行為であるということを考慮すれば、この説は私個人の思いこみにすぎないのかもしれない。
芸術は、美・永遠性と関連がある。そこでつながるのが、一つの解釈としての「抜け道・周囲の哲学」である。これは私自身が考え出したものであるが「哲学自体、可能なのか」といったほどの究極のアポリアに陥ったとき、唯一考えられうる「場」は、その周囲であり、といっても斜格から哲学を見るのではなく、あくまで根本・本質を目指さず、周囲から捉えることによって抜け道を通ってまた本質に立ち戻って哲学を可能にしようとする考え方である。
ではそれがどう芸術と関連づけられるかといえば、永遠性とはそこにとどまらせておくことであるからして、美と連関してぐるぐると回り続けてしまい、そこに一つのアポリアが生じるからである。そこから今度は「解釈」という話が出てくるが、それについては後述する。
そこから見えてくるものは、点や線や色など、それらがすでに様々な情景なり精神性なりを内在させている。その(点や線や色)「収束」されていくものを受け取る、あるいは~ここからはハイデガー『芸術作品のはじまり』についての私なりの解釈であるが表現は多少抽象的となる~また、そこからすべてのイデア的なもの、本質、感情その他の表象内容が発散され、また創作者が意図的にあるいは無意識的にそこへと入る・入りこんでゆくところの一つの「点」に収束してゆくものである。
最後に私の描く「芸術像」とは何か。それは先ほど述べた「解釈」説である。が、これはプラトンのいうところのミメシスを土台としている。といってもでは全てが美のイデアのミメシスであるなどとは言っていない。より大きな視点に立って、芸術とは、何かある特定の一つのイデア的なものの表現ではなく、世界のあらゆる原理や秩序(ロゴス・コスモス)、イデア的なものの、一つの「側面」についてこれを「解釈」し、「模倣」するものである、と私は考える。