【感想文】三大交響曲@芸術劇場8.18(後半)
2曲目はベートーヴェンの「交響曲第5番ハ短調作品67〈運命〉」。この名称もまた、ベートーヴェン自身による正式なものではない。さらに通称の由来(もしくは冒頭の4つの音)についても大きく2つの説があるようだが、措いておく。この曲は絶対音楽であるので、逸話に関しては私はあまり興味はない。
冒頭の4つの音、これをどうやって指揮するか、よく子どもの頃に父に試された。(父はいまだに趣味で吹奏楽団とオケでトロンボーンを吹いているが、東京の音大の指揮科を受けて合格したものの、沖縄の貧しい実家では楽器一つ買えず、泣く泣く諦めたという過去を持っている。)私は小さい頃から、習わないのに、単純拍子であれば教科書に載っている通りの手の動きはなぜかできた。今回、これを書くにあたって思い出したので、いつもは見ないYouTubeで「運命の冒頭の指揮比較」というのを見てみたら、私の子どもの頃の指揮はイヴァン・フィッシャーに一番似ていた。要するに、ほとんど棒も腕も振るわないし、震わせない。また、下から持ち上げるような動きもしない。私は大きく右腕で円を描くようにして、ダーン、のところで指揮棒をど真ん中に突き刺す、そんな動きをして、父には、4回振り回さないだけいい線行っている、と小さい頃褒められた記憶がある。
しかしこの動画を見て、実に様々な冒頭のバージョンがあるものだと感心した。同時に、指揮者というのは大変だがわがままなのか、というより、その指揮その指揮に振り回される演奏家たちにおける「表現」とは何なのかについてまた考えてしまった。
この動機(モチーフ)は全体的に再現されるが、同じ再現でも強弱のつけ方がはっきりしており、単調にならないのでその点はとても良い指揮だなと思った。テンポは、打って変わって、私としては若干速く感じた。ある程度ゆっくりの速度を持っていないと、動機がサラッと流れてしまう気がして、もっとゆっくり力強いモチーフを強調するような「運命」も聴いてみたいと思った。
第3楽章から第4楽章へは切れ目が分からないような入り方をするが、この後半特に第3楽章では、オーケストラとしての音の出方、つまり「ハーモニー」がとても美しかった。言うまでもなく「ハーモニー」の語源はギリシャ語で「ハルモニア」であり、調和、などの意味をもつ。クラシックのコンサートで曲に触れると必ず頭に浮かぶ「ハルモニア」「調和」。ピアノ1台でもそこにハルモニアは存在するが、やはり私はより重厚なオーケストラの奏でるハルモニアを好む。
ベートーヴェンは、ピアノ曲でもそうだが、ラヴェルのような「音の裏切り」がほとんどない。安心して弾いたり聴いたりできる作曲家だ。いわゆる「不安な音の進行」がほぼないので、和音だとか、メロディだとか、転調だとか、そういったものを、純粋に楽しめる。純粋に「音楽」を「音楽」として楽しめる、味わえる。
最後はドヴォルザークの「交響曲第9番ホ短調作品95〈新世界より〉」。これは7月11日にサントリーホールにプラハ放送交響楽団のものを聴きに行き、その際のライナーノートがある(7月28日投稿分)ので、書くのは少しにとどめよう。
チェコの作曲家、ドヴォルザークの曲と、プラハ出身の指揮者。やはり知らず比較してしまう。
第1楽章。異なっていたのは、今回の演奏は大音量であり、プラハ放送とは違う熱量を持っているのだが、奥行きがなかったのと、背景が見えなかったことである(あくまでも私の主観であり、聴き手の私の耳が捉える力を備えていなかっただけかもしれない)。第2楽章は、小さな音が繊細さを欠くことなく、綺麗に出ていた。プラハ放送の時に書いたが「音楽は歴史的距離のみならず、地理的距離も超越する」ということに関して、最もダイレクトに感じられるのはこの章ではないか。だが何というか、今回感じたのは、異国情緒ではある、あるのだが、それは「日本にいて、ここで感じる異国情緒」だったのである。いや、ここにいるからこそ異国を感じるから異国情緒というのだろうが、要するに、超越した(思い切ったジャンプをした)背景や奥行きのある景色までは、見えなかった、ということである。聴き手の私はあくまで日本にいるという意識は持ち続けており、音とともに思い切りのよいジャンプ体験(超越)まではなしえなかったのである。
第3楽章から第4楽章への移行は素早かった。そして第4楽章はやはり圧倒されてしまった。「運命」にさほど圧倒されない私はなぜか「新世界」第4楽章では圧倒されるし、泣く曲じゃない、と思っていたのにラヴェル「ラ・ヴァルス」で泣いてしまう。演奏も指揮も素晴らしかったと思う。現代の日本人が、過去の異国の作曲家の曲を指揮・演奏するのだ。完璧はあるのか。いや、すでに曲としてなら完成されていた、といってもいいだろうと思う。ただ、音楽という「時間芸術」に、完璧はあり得るのだろうか、さらには芸術というものには一体、完璧なんてあり得るのだろうか。
答えは「否」だろう。もし自然というものがあって、音楽でさえも(絶対音楽でさえも)、およそ芸術作品というものが、自然の模倣である、という考えに与するのであれば。
今回は、三大交響曲ということで、三者全く異なる作曲家でありながら、よく知られた曲でもあり、それゆえにとりわけ指揮者の腕(特に解釈)が試された内容だったように思う。そして、指揮者と演奏家の間には何があるのか、曲自身の求める「表れ方」を引き出すのは指揮者なのだとしたら、演奏家はそれに追随するのみなのか、演奏家は、そして指揮者は、音楽という無形の時間芸術において、一体どこに位置するのか、幾度も考えてきたことだが、再びそんなことに思いを馳せる契機となった。
前半はこちら👇