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【エッセイ】独白④~狂人日記~  

(過去作)

「つまり、私はこのように思うんです。
 既に気のふれた人間が、要するに、彼の主張するところの彼の理性をもってして、狂人とは何であるかを定義し得るのか、ということです。

学と名のつくものは、問いに対する解を追究するものですね。そしておよそ学と名のつく限り、それは理論的に他者に教えられうるものと考えます。哲学の問いとは、例えば、いかに生きるべきか、時間はいつ始まったか、誰が芸術家と呼ばれるか云々、howだのwhenだのwhoだのと形は違えども、それらは全てwhatに還元できるのだと私は考えます。生とは何か、時間とは何か、芸術とは何か云々。つまり、対象の何であるかを追究すること、すなわち定義づけが、哲学の基底課題ではないかと思うんです。では、哲人でもあり狂人でもある人間は、果たして、彼の理性を主張し、狂人とは何かを定義できるでしょうか

私は、哲学なんぞをちょっとかじってしまったので、こんなことを考えてしまうわけですが・・・あるいはかなりの愚問かもしれませんね。つまり、狂人の方から迫れば、狂人とは理性を喪失した者である、という定義が仮に成されていれば、その時点で彼は既に哲人の資格は喪失しているわけですからね。だって、哲学者には理性が必要でしょう?・・・じゃないかしら?

それとも、こういうのはどうでしょう。全ての詩人がそうだとは決して言わないけれども、例えば神憑りみたいな状態になったときにしか詩が書けない人がいて、ええ、半ば私みたいなものですね、いや、これはあまり誇張ですかね、でまあ、とにかくその詩は傑作だとして・・・そこに理性ってあるのでしょうかね?どう思います?私は、モーリス・ラヴェルの曲のような詩を理想としているんです、これも勝手な意見ですが、彼の曲の偉大たる所以は、感性と知性の均衡のとれた融合にあるのではないか、と。私は詩人としても失格ですかね。いや、私が言いたかったのは、一体、理性をもって狂うということがありうるのか、ということです。

さて、病とは何であるか、これも学問上の差異によって定義が異なることは承知しております。じゃあ、私は果たして病気でしょうか。そうであるならば、私の病は一体何と呼ばれているものなのか、一つ残さずおっしゃっていただきたいんです。何故って、今私は自分のいわゆるバイオグラフィーに、できるだけ自分を写実的に反映させたくて、虚構も用いるつもりで、一つの私小説まがいの何だかわからないものを作ろうと企んでいるんです。これは企みなんですよ、ふふふ。ああ、失礼しました。ところでどうでしょうか、やっぱり教えられませんか。

要するに私は私をして、本気だかインチキだかデタラメだかの自己分析を試みようとしているところでして。
つまり、仮に私が今健全なる理性を具えていないとして、そんな奴の分析は一体何の役に立つのだろうかという、これまた勝手な危惧です。

詩ならばまだ余裕はありますね、何の法も持たせなくても成立しうるのですからね、一応は、の話ですよ。しかし分析となると、ちょっと話が違ってくるのではないでしょうか。結局、ここにたどり着くんです。狂人が自らを分析できるのか、ということです。定義とまでゆかなくても。もっとも、私の目的は定義づけではありませんし、自己の定義づけなんて誰ができようものですか。いいんです、この際、或る物を定義しなければならないか、感性だけで詩を書いてもよいからどちらかをせよと言われたら、迷わず自分は哲学者の権利を放棄するでしょう。けれども分析もして、詩も書こうとしている私には、必要な情報かもしれないんです。理性は必須なのか、あるいは理性をもって狂う・・・。詩作か分析か、どちらかもしくはどちらも企画倒れになるのでしょうか。とにかく、私に怪しいところがあるのなら、複数あろうが何であろうが私は今更驚かない心づもりです、病名というのを一つ残らずおっしゃっていただきたいんです。危険ですか?大丈夫ですよ、「危険」の意味は二つあることもちゃあんと理解しているつもりです。でも、その中に「理性を欠く」といった意味の説明をどこかに見出したら、この企画はどこへ運んだらよいでしょう。狂人日記とでも名づけておきますかね、ハハハ。」





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