技術の進歩とは、平らかにすることである
子供の通う幼稚園は結構な坂道をのぼった先にある。送り迎えの時に活躍するのが電動アシスト自転車である。これを開発した人には足を向けて寝られない。
急な坂もなんのその。後部座席に15キロの暴れ馬を載せていても、スイスイらくらくだ。この世には坂道なんてなくなったも同然といえる。全てがまっ平らな道となる。
技術の進歩は、あらゆるバリア(障害)を取り除く。階段はスロープに、エスカレーターに、エレベーターに。情報は”お触れ”から、回覧板に、新聞に、テレビに、ネットに。憧れのあの人が日常的に使っている消耗品までその気になれば調べがついてしまう。という領域をとっくに通り越して、その情報が商業利用されるまでである。海の向こうの情報から、人には聞けないあんなことの情報まで、調べのつかないものはほとんどない。
技術の進歩とは、海超え山超えして得ていたものや、人の深層に理解を示してはじめて分かるモノを、アクセス容易な平面座標上に置くかのようだ。物理的、心理的なバリアを取っ払い、全てを平坦にしてしまう力がある。
確かに平坦な道のほうが歩きやすい。情報もボタンひとつで専門家レベルの知識を得られることもある。でも、必ずしも良いことばかりだとは思わない。
ある宇宙飛行士が残した「地球は青かった」という今では当たり前過ぎて誰も言わないような言葉を述べるのに、一体どれだけのバリアを排除してきたか。この言葉の重みを理解するのに、平坦な道では負荷が足りない。また、山頂からの絶景を自分の足で登って眺めるのと、どこの誰かわからない人が、本当にその山であるかもわからない画像を、ひょいっと見せてくれるのでは、何かが決定的に違うと思う。
もちろん、全てを自分で体験することは現実的に不可能なため、擬似的に知識的に情報を収集することは悪いことではない。だが、その時には代替手段として活用する、という意識を持ち合わせる必要があると個人的に思う。平らな道を行くことに慣れすぎると、何の感動も得られないような気がしてならない。
「最近の人はすぐにネットで答えを調べて自分では考えない」などと言われているが、手の届く場所に答えがあるのに、わざわざ自分でバリアを形成して乗り越える必要などありはしない。どちらの言い分も分かる身としては、いたたまれない気持ちになる。
技術の進歩は素晴らしい。豊かな生活をもたらしてくれる。ただ、平らな道に舗装する際に、我々から想像力や達成感といったものも一緒に”ならして”しまう。舗装されたその道を歩く際には、元はどんな道だったのかと、考えるようにしたいと思った。
子供を園に預け、駆け下った坂道。風を切る感覚は心地よかったが、”汗ばんだ”身体には少し寒かった。平らな道では気付けないことだろう。
(いやいや、お前さん冒頭で電動アシスト自転車のありがたみを享受してるやん! それって別に使わなくてもいいもんだよね。って?
違うんだなー。充電切れてて、とんでもない苦行を味わったからこそ分かったんですよ。えぇ。)