
【エッセイ】恋するやぎとnoteの関係
noteを見ていると、記事同士で会話しているような錯覚に陥ることがある。これは、自分の記事やフォロー関係だけでなく、他人の記事同士や偶然出会った記事でもそうだ。
考えすぎだろう。そもそも相手は自分の記事や、自分が読んだ他の人の記事を読んでいない可能性は大いにある。
自分の記事にスキがついていれば、読んで何かしらを感じてくれたことは間違いないが、本当に伝えたいことを理解してくれたかどうかまではわからない。スキをつける基準は人それぞれだ。
必ず読まれていて、なおかつ正確に理解してくれているなどと考えるのは思い上がりだ。
でも、それを望んでいる。私はこの感覚を知っている。これは恋のそれと似ている。
こんな童謡がある。
“しろやぎさんから おてがみ ついた
くろやぎさんたら よまずに たべた
しかたがないので おてがみ かいた
さっきの てがみの ごようじ なあに
くろやぎさんから おてがみ ついた
しろやぎさんたら よまずに たべた
しかたがないので おてがみ かいた
さっきの てがみの ごようじ なあに“
やぎさんゆうびん 作詞:まどみちお
この曲の解釈は人それぞれでよいのだが、私には恋人同士のやりとりにしかみえない。
文通が、直接会えない当人同士で行う到達速度が非常に遅い会話だとするならば、待ちわびた手紙を文字通り咀嚼しているその行為は最上級の愛情表現ともいえないか。我が子のことを「食べちゃいたい」と表現する親をみたこともある。自分の中に取り込んでその全てを理解したい、包み込みたいという感覚だろう。
食べるということを愛情表現として、そして読むということの本質を「理解」とするならば「読まずに食べた」とは、内容を理解していない段階にあるが、もはやその手紙の内容がというより相手のことが好きすぎて、その写し身たる手紙を食べてしまったと言えないだろうか。だから、改めて内容を詳しく教えてほしい(もっとアナタを知りたい)という意味で、手紙の内容をたずねるのだ。
ここで一度、この童謡の歌詞とそこから連想された映像を忘れてもらいたい。大事なのは想像力。イマジネーションのパワーを借りて、こんな状況を作りだそう。
・山羊同士がお互いに手紙を出しあう
・その手紙を食べてしまう状況
・手紙の内容をたずねるため返信しあう
このシチュエーションを想像するのだ。参考までに私のイメージを表現しておいた。
手紙の内容を聞いているようで、大事なのはそこではない。相手を想う気持ちがあるからこそ、手紙を出しあい続ける。やぎさんはラブレターを交換し続けるのだ。
今の時代に文通をしたことがある人は少数派だろう。現代は、スピーディーかつダイレクトに相手と繋がれてしまうので、こういった体験が滅多にない。
だからこそ、時間差で直接的でなく、ふいに訪れる「この記事はあの記事に対する返信なのではないか」という観念が、たとえそれが勘違いの産物であったとしても、強く心を揺さぶる。それこそ、食べちゃいたい。
読まれなくてもいい。理解されなくてもいい。思いをのせて記事を出すことに意味があり、 たとえそれが勘違いだとしても、返信に心浮かれていい。
私たちは、どこかにいる「やぎさん」に対してラブレターを書いているのかもしれない。