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■【より道‐82】戦乱の世に至るまでの日本史_室町幕府の四職_京極氏

■承久の乱
京極の氏は、平安時代末期から鎌倉時代に活躍した、佐々木秀義(ひでよし)の孫、佐々木信綱(のぶつな)から始まります。

1221年(承久三年)後鳥羽上皇ごとばじょうこうが、鎌倉幕府の執権・北条氏に対して討伐の兵をあげ「承久の乱」が起こりますが、佐々木一族は、兄弟で敵味方わかれて戦ったそうです。

といっても、長兄の佐々木広綱(ひろつな)はじめほとんどの兄弟は、後鳥羽上皇に味方をして敗戦したのですが、四男の佐々木信綱(のぶつな)は、北条政子・尼将軍率いる鎌倉幕府軍に従属し武功をあげて、佐々木氏の本貫地である近江国をたまわりました。


■京極氏
佐々木信綱(のぶつな)は、四人の息子に領地の近江国を分割して与えます。長男・佐々木重綱(しげつな)には、大原荘を。次男の佐々木高信(たかのぶ)に高島郡を。三男の佐々木泰綱(やすつな)には、宗家と6郡を。そして、四男の佐々木氏信(うじのぶ)にも6郡を与え、彼らの子孫が、それぞれ、大原氏、高島氏、六角氏、京極氏を名乗るようになりました。

このころ、なぜ、「京極」という氏を名乗るようになったのかというと、京都の京極高辻という場所にある館を、佐々木氏信(うじのぶ)が継ぐことになり、その子孫が京極氏を名乗ったからだといわれています。


■佐々木(京極)道誉
京極氏が日の本で、多大なる影響力を持つことになったのは、佐々木氏信(うじのぶ)の曾孫で、足利尊氏の朋友である、佐々木(京極)道誉(どうよ)の功績が大きいです。

佐々木(京極)道誉(どうよ)は、1333年(元弘三年)の「元弘の乱」で、足利尊氏と共に、京都六波羅探題を攻め落とし、鎌倉幕府の倒幕を果たした人です。

二年後の「建武の乱」でも、足利尊氏に賛同して、新田義貞軍と戦いました。すったもんだあって、足利尊氏は一度、九州まで追いやられてしまいましたが、北朝側の光厳こんごう上皇の綸旨を得て、室町幕府が開かれました。

室町時代初期、南北朝時代は、まだまだ日本がまとまっていない大変な時代でしたが、佐々木(京極)道誉(どうよ)は、日の本の影の支配者として功績を残して生涯を遂げました。


■京極高詮と明徳の乱
佐々木一族の宗家はあくまでも、佐々木六角氏でした。佐々木(京極)道誉(どうよ)は、いかに、みずからに権力があろうとも、佐々木一族の結束が、なによりも重要と考えていたからだと思います。

それは、鎌倉幕府の倒幕時に、北条幕府軍に味方をした、佐々木六角氏に、咎めがないよう働いたことで、そのことがよくわかります。

しかし、運命の出来事がおこります。

それは、佐々木(六角)氏頼(うじより)の嫡男が17歳の若さで亡くなると、佐々木(京極)道誉(どうよ)が、佐々木(六角)氏頼(うじより)の養子に、自らの孫、京極高詮(たかのり)を送り込んだことです。

いち時は、この判断で佐々木一族も安泰と思われいたのですが、なんと、佐々木(六角)氏頼(うじより)は、四十歳の高齢で嫡男を授かりました。

それで、やむなく京極高詮(たかのり)は、京極家に出戻ったのですが、このときの因果が、やがて、京極氏の兄弟ケンカな原因になります。

とにかく、京極高詮(たかのり)の人生は、波乱万丈でした。京極の家に戻った頃、隣国の大名・山名氏の家督争いから発展した「明徳の乱」が発生します。

そのころの山名氏というのは、六分の一殿とよばれるほど、大勢力をもっていましたが、山名氏討伐に参加した京極高詮(たかのり)は、武功をあげ、長いあいだ、山名氏と領地のとりあいをしていた、出雲・隠岐の守護を任されるようになりました。

■四職と応永の乱
1398年(応永五年)室町幕府3代将軍・足利義満から、四職という、軍事招集と指揮、京都の警察、徴税等をつかさどる侍所の長官に、京極氏は任じられました。

しかし、それだけ、日本の中心を司る家には、様々な七難八苦が訪れます。

まず、1399年(応永六年)足利義満と大内義弘の対立により発生した、「応永の乱」で、京極高詮(たかのり)は、幕府側として戦いますが、弟の京極秀満(ひでみつ)は、大内氏に従属してしまいました。

その原因は、先の六角氏の養子問題です。じつは、あのとき、弟の京極秀満(ひでみつ)が、京極の家督を継ぐことになっていたのですが、六角氏に嫡男が生まれたことで、京極高詮(たかのり)が、京極の家督を継いだのです。

このことに不満をもっていた京極秀満(ひでみつ)が、「応永の乱」で、大内氏と一緒に挙兵して討死したのです。


■嘉吉の乱
京極高詮(たかのり)の息子、京極高数(たかかず)は、くじ引きで将軍に選ばれた、六代将軍・足利義教よしのりに仕えることになりました。

足利義教よしのりは、気にくわないことがあると武力をもって統治していきました。また、父である足利義満よしみつと同じように、有力武家の家督問題に首を突っ込み勢力衰退を図ったと言われています。

理不尽で強迫的に物事をすすめる、足利義教よしのりを恐れた大名たちですが、そのなかで「殺さなければ自分が殺される」と追い詰められた大名かいました。それが赤松氏でした。

1441年(嘉吉かきつ元年)赤松氏は、足利義教よしのりや有力武家を殺害する「嘉吉の乱」をおこします。そのときに、巻き込まれ殺害されたのが、京極高数(たかかず)でした。

その後、京極高詮(たかのり)の孫の京極持清(もちきよ)が家督を継ぐと、京極持清(もちきよ)は、とても優秀で、長い年月、一族を繁栄させました。

しかし、1467年(応仁元年)に、「応仁の乱」が起きてしまうのです。


■応仁の乱と京極騒乱
京極氏は「応仁の乱」で、東軍の細川氏に属しますが、宗家の六角氏は西軍の山名氏に味方したので、同じ一族で近江国の所領を奪い合います。

しかし、長年、京極一族を繁栄させてきた、京極持清(もちきよ)が1470年(文明二年)亡くなると、京極家でも家督争いが始まってしまいます。「京極騒乱」と言われる家督争いです。

この内輪揉めは、「応仁の乱」終結後も続き、終結まで35年間も続いたそうです。


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