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■【より道‐72】戦乱の世に至るまでの日本史_「足利一門」三管領・斯波氏

征夷大将軍である足利尊氏の補佐役であった「執事」の職は、足利一門の高師直が担っていました。

「観応の擾乱」では、「執事」で婆娑羅大名とよばれていた高師直と、一部の家柄の高い武士たちだけで政事をする足利直義の争いとなりました。

足利尊氏の弟である足利直義は、副将軍と呼ばれ、公家や寺院との交渉事や政事に専念していましたが、それに対抗するだけ「執事」という職は影響力があり、武士の長である征夷大将軍に次ぐ力があったのですね。

時が経ち、足利義詮の時代になると「執事」という職は、「管領かんれい」と名が変わりました。室町時代に管領の職を担った家のことを三管領とよばれまして、それが、細川氏、斯波しば氏、畠山氏になります。

室町時代の最大の難題でたる、「応仁の乱」について整理するためには、斯波氏についても知っておく必要があると思い、ざっと、まとめてみることにしました。


■斯波一族というもの
斯波氏を少し調べてみると、いきなり、驚きがありました。それは、本来であれば、斯波氏が足利一門の宗家だったということです。

足利尊氏の高祖父である足利泰氏やすうじは、北条執権の名門、名越家から正室を娶り、長男の足利家氏いえうじを授かりました。

しかし、名越家が、北条得宗に反乱を起こしたため、足利家氏の母である名越の娘は側室となり、あらたに、得宗の北条時氏の娘が、足利泰氏の正室になりました。その子が、足利尊氏の曽祖父になる、足利頼氏よりうじとなります。

この、本来であれば嫡流として家を継ぐ予定だった、足利家氏がのちの斯波氏と称する一族の祖ということになります。

しかし、庶家となった足利家氏ですが、その後、将軍に直接仕える鎌倉御家人となったため、足利宗家に一線を画す格の高い家柄になったそうです。その後の子孫たちは尾張守おわりのかみを任されたので、その一族は、足利尾張家とよばれていたようです。


足利尾張家は、1333年(元弘三年)「元弘の乱」で、足利尊氏に従い六波羅探題に攻め込みました。1336年(建武三年)の「建武の乱」では、「湊川の戦」に参戦。その後、新田義貞を討つなどの大活躍をします。そして、このあたりの頃から斯波と名乗るようになったそうです。

1350年(観応元年)に「観応の擾乱」で高師直と足利直義の対立が起こると、斯波氏は、足利直義派に属しましたが、足利直義が追い詰められ失脚すると、室町幕府に帰参しました。

しかし、足利直義の養子である足利直冬が挙兵すると、再び足利直義に属し足利尊氏、高師直と戦いました。「観応の擾乱」は、結果的に足利尊氏が勝利しましたので、一時的に室町幕府にに帰参しましたが、擾乱後の動乱で養父を殺害された足利直冬が九州から挙兵すると、それに呼応し、三度、室町幕府と戦うことになりました。

この行動をみると、斯波氏は、本来であれば、自らが足利宗家だという誇りをもちながら、武士を治めるという野望をもち、南朝側に加担していたのかもしれませんね。

しかし、足利直冬が、兵を引くと再び幕府に帰参するという、めちゃくちゃな道理ではありますが、足利尊氏は、これを許してあげたようです。

足利尊氏が亡くなり、足利義詮が征夷大将軍になると、斯波氏にチャンスが到来します。1361年(康安元年)に「執事」の細川清氏が失脚すると、後任として足利義詮の執事となることになったのです。

すると、斯波氏は、室町幕府の要職人事を自らの一族で固め、更には、足利直義派閥でともに戦った、山名氏、大内氏を室町幕府に帰参させるなど、再び、家柄の高い一部の武士だけで政事を行う執権政治の体制を整えました。

しかし、ここで対立する男が出てきます。それが、佐々木道誉です。

佐々木道誉は、自らの娘を斯波氏の三男に嫁がせており、舅となっていましたが、斯波氏当主が三男を退け、四男に家督を継がせたことや執権政治の政事の体制に怒り、対立を深めていました。

そして、突如として、将軍、足利義詮が、斯波氏の四男に自らの領地へ帰るようにと命令を下し、管領(執事)の職には、佐々木道誉が推す細川氏が再び就くことになったのです。

斯波氏は、どちらかというと、東北にチカラをもっていた一族となりますので、我々のご先祖様、長谷部氏とはあまり関係ないですが、DNAのご先祖さまである、佐々木氏とは、婆娑羅と執権という、政治的思想で対立する犬猿の仲だったようですね。


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