■【より道‐26】千鳥ケ淵戦没者墓苑と吹き抜ける空
年齢を重なるにつれて、いくら運動しても痩せなくなってきた。食事を制限したとしてもちょっと気を抜くとお腹がポッコリでてくる。長年のデスクワークとうつむきながら歩くクセが猫背となり、首に深い3本くらいのシワができた。
目じりには笑いシワがくっきりのこり、ほうれい線が目立つようになった。腕は垂直にあげられず四十肩に苦しみ白髪も増えた。髪の毛が薄くなってきたので、皮膚科に行ってプロペシアという薬を飲み、朝晩のリアップで頭皮に刺激をあたえるのが日課だ。
腰に気を遣いぎっくり腰におびえている、ほとんどの歯が差し歯になてしまい奥歯4本を抜歯した。ああそうだ、視力なんてほとんどありません。メガネとコンタクトは必需品だ。なんだか落ち込む話ばかりだが、身体がオジサンになったことを教えてくれている。
それでも、まだまだキモチは若いつもりだ。昔のようにロクデナシ人生を送りたいけど何を勘違いしたのか、人の役に立ちたいとも思ってる。家庭をもって、なんだかまるくなったとみたいだ。
みた目もなんとか維持したい。本能的に健康でいたいのだろうか、毎日一万歩を日課にしたり、ジョギングをしたり、ゴルフなどで身体を動かす。いままでお酒も相当飲んできたので、できるだけ平日は飲まないようにしてる。
父の従兄弟が亡くなったことをキッカケに、ご隠居とのメールがはじまり、不思議なご縁が続いた。氏祖の長谷部信連や、戦国時代を生き延びた長谷部元信、尼子の落人と称したご先祖さまたちのことを学び、戦時中を過ごした亡き祖母の手紙を読むことができた。今日まで命を繋いでくれたご先祖さまを偲び、人生で何をするべきなのか考えている。
そんなある日、福岡に住んでいる山根さんが東京に来ることになったので水道橋で待ち合わせをして一緒に朝のお散歩をすることになった。山根さんとは、昔からよく日本全国の記念碑や史跡に足を運び一緒に歴史を学んでいる。今回は、せっかく東京に来られたので皇居の周りを散策することにした。
2人で話すことは、ビジネスのことや歴史のことが中心。ちょうど大河ドラマ「青天を衝け」をやっていたので、「この辺のレンガは全部渋沢栄一がつくったんですよ」とか、「昔はこの辺りまで江戸城ですよ」「この辺りに毛利の武家屋敷があったみたいですね」など、道ゆく史跡をみつけては、ネットで検索しながら道を歩いた。
九段下のあたりに着くと「昭和館」がみえてきた。昭和の国民の暮らしを展示しているようだが、まだ朝早いのでOPENしていない。今回は、ご縁がなかったということで改めることにした。そこから50mほど歩くと「北の丸公園」の入り口がある。ここは、自然豊かな場所らしいから、もう少し歳を重ねたら訪れよう。
「北の丸公園」入口をこえると常燈明台という灯篭が見えてくる。明治4年に靖国神社に祀られた霊のために建てられた塔のようだ。もともとは、戊辰戦争の「官軍」戦死者の慰霊のために、招魂社として創建された。明治維新の志士達の慰霊の地である。
歩道橋を渡り反対車線に行くと靖国神社がある。何度か訪れたことがあるが、荘厳な雰囲気をかもしだしている。「あえて、江戸城の隣の地に明治維新の英霊を祀る神社を建てたということに薩長の意図を感じますよね」などと話をしながら鳥居に進むと、黒のワンピース姿のお母さんと、黄色い傘を差した女の子が参道を歩いている。しかも、複数組、みんな同じ格好だ。
なんだろう、異様な光景というか、より厳粛な雰囲気が漂っている。調べてみると、お嬢様学校「白百合学園」が靖国神社の隣にありそこの生徒さんだという。
「白百合学園」はキリスト教系の学園だが、靖国神社の鳥居を通り過ぎるとき、必ず振り返り必ず一礼をする。聞いたところによると、昭和五十六年(1981年)にローマ法王・ヨハネ・パウロ2世が訪れたとき、ある生徒が法王に対してこう質問したそうである。
「通学路に靖国神社があるのですが、どうすればいいですか?」この質問に、ヨハネ・パウロ2世は「頭を垂れて通りなさい」と答え、それ以降、白百合学園の生徒は、靖国神社に向かって頭を下げるようになったそうだ。まさに「和を以て貴しとなす」の精神だ。神様が違っても英霊を尊ぶ心にローマ法王の懐の大きさを感じる。
靖国神社の参道を進むと正面に「大村益次郎」の銅像、右手にさまざまな美術的建造物や石碑がみえてくる。美術建造物は、なんだか来るたびに新しいものが増えているような気もするが、なぜ、こういうところは美術品との融合があるのだろう。広島の平和記念公園もそうだし、全国のお城の隣にはよく近代美術館がある。何か理由があるはずだ。と疑問を感じながらも先を急いだ。
境内入口横に、英霊の手紙が掲示されていた。毎月1回変わるようだが、自分のときは、陸軍少尉齋藤一六さんが奥さまに送った手紙で「我は 大君の赤子なり。今大君の御為果つるは男の本懐なり。」と冒頭書いてあった。しかも「我は」の文字を下段に記し、「大君」の文字を隣列の上段に記していたのが印象的だ。自分の事よりも天皇の文字を上段に書く「皇軍」としての忠義を表していた。
靖国神社で参拝したので本来であれば、本殿近くにある「遊就館」に立ち寄り、近代史を学びたいところだが、コロナ禍のため閉館していた。たとえ入館できても2時間はかかるだろうから、こちらも、今度ゆっくり見学したいところだ。
皇居外周に戻ると「品川弥二郎」と「大山巌」の銅像が立っていた。やはり、明治維新の立役者たちの権威をここに残しているのだろうなと思いながら、皇居沿いに進むと、ようやく「徳川」の様子がわかるお「江戸大江図」の看板がでてくきた。これを見てみると「松平氏」「田安氏」「清水氏」「一橋氏」の屋敷がデカイことがよくわかる。ちなみに、みんな血のつながった徳川の親戚ということをこのときまで知らなかった。
そのまま、まっすぐ進むと、皇居の隣に信じられないほど大きな空き地があった。東京のど真ん中なのに。国が管理している場所なんだろうか、どんな意味があるのだろうなと不思議に思うと、さらに隣に「三番町共用会議所」と書いてある施設があった。これまた、千代田区に合わない、なんともだだっ広いエリアに小さな小屋がいくつか建っている。
とても不思議なだったので、調べてみると、第9代内閣総理大臣「山縣有朋」が. 明治18年に建築した邸宅跡に建てられた国の会議所で、邸宅は、空襲で焼失してしまったそうだ。現在は、農林水産省管轄とのこと。見る限り、人影はない。
水道橋から歩いてきたのでいい加減疲れたなと思った頃に「千鳥ケ淵戦没者墓苑」がみえてきた。無料でだれでも入れたので、あたりまえのように進むとこのような説明が書いてあった。
「ここ千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、先の大戦において海外で亡くなられた戦没者の御遺骨を納めるため、昭和34年3月、国により建設された「無名戦没者の墓」です。ここに納められている御遺骨は、昭和28年以降政府派遣団が収集したもの及び戦後海外から帰還した部隊や個人により持ち帰られたもので、軍人軍属のみならず、海外において犠牲となられた一般邦人もふくまれており、いずれも遺族に引き渡すことのできないものです」
中国の張家口で昭和十五年(1940年)26歳の若さで亡くなった、喜美子お祖母ちゃんと、産まれてまもなく亡くなった早苗おばさんは、遺族が引き取りにきたので、父さんの実家、岡山県新見市新郷町高瀬に墓がある。でも、遠くて頻繁にいけないから、ここでお参りしてもいいだろう。これもきっと、なにかのご縁だ。