わたしと猫と厄介ごと
わたしは一匹の猫と暮らしている。
アビシニアンの長毛種で、耳が大きく狐のようなしっぽが特徴の『ソマリ』という猫種の猫だ。
ソマリは成猫になると胸元にふさふさの毛をたくわえる、えり巻きをしているようなエレガントなシルエット、またその泣き声は「鈴を転がすような音」と言われ、高音のりんとした澄んだ音を出す。
幼い頃ディズニー映画の『リトルマーメイド』のビデオテープが家にあった、冒頭のシーンで流れる「トリトンの娘たち」という曲。その曲中で主人公である末っ子のアリエルが「鈴を転がす声です聞いて〜♪」と紹介されるのだが、わたしはずっとこの「鈴を転がす音」とはどんなものだろうと幼くして心に掛かけていた。まだネトフリもアマゾンプライムもましてやDVDもない時代、退屈しのぎに同じテープを何度も見ていたわけだが、そのたびにこの「鈴を転がす声」がというフレーズが頭に居残った。
話が逸れたが、狐のようなシルエットそして鈴を転がす声を持ち、人懐っこい性格とされるのがこの『ソマリ』の魅力だろう。わたしはこのソマリと暮らしている。ニャアと鳴く声が鈴の音に似ているかは印象によるだろうけど、この涼やかな声で甘えられると、もれなくわたしも自らを「猫の下僕」とする猫馬鹿の一人となった。ころ合いよく上がったコロッケのような、赤茶色のふんわりとした愛猫は本当に愛らしさの塊だ。
「スーパースペシャルミラクルラブリーアメイジングかわいいちゃん」と、馬鹿を丸出しにして、わたしは愛猫を呼んでいる。※もちろんちゃんと名前はあります
この愛猫とわたしとはペットショップで出会った。
時はコロナ初年度の2020年、確か二度目の緊急事態宣言明けにイタリアンレストランへ出掛けランチワインをひっかけが挙句、ほろ酔い気分でそのまま雪崩れ込んだ先のペットショップでこの愛猫と出逢う。
前述の一文だけ見ると衝動的で実に責任感のない出会いだが、それ以前にも猫を飼いたい、猫と共に暮らしたいという願いはあった。あったが生き物と暮らすことに軽々しくは踏み出せなかった。
ペットショップに当時猫は愛猫の一頭だけだった。猫といえばなんとなくアメショことアメリカンショートヘアーという思い込みがあるわたしだったので「アメショ、いないんだ」とやや残念に思いながら、ケージの中で一人遊びに耽る愛猫を抱かせてもらうことになった。
よくある愛犬・愛猫との出会のエピソードとして「目が合った」「目をじっと見つめ尻尾を振ってくれた」などと話を聞くが、愛猫はそういったものが一切ない猫だった。酷くマイペースというか、媚がないというか、つまりはどうしようもないほどの猫だったのだ。
抱かせてもらったのも一瞬でその暖かさを感じるまもなく、彼はショップスタッフに連れられ入ったケージで、一人遊びを再開した。人間嫌いというわけではなく、本当に遊びを中断されたから嫌だったという感じ、人間に例えるとゲームが白熱していたところに間が悪くUber eats来たとそんなところだろうか。本当にど・マイペースな猫だった。
「この子は将来イケ猫になりますよ」
ショップスタップはにこやかに言う。猫にも美醜があるのかと思いつつ、開いた店のホームページに掲載された彼の写真は確かに愛らしく、将来性を思わせる容姿をしていた。
一週間、わたしは悩みに悩んだ。
(売買が)決まれば、速やかにホームページから写真を消すと言われていたので、わたしはまるでチケット争奪戦ともいう勢いで彼のページをリロードし、彼がまだショップにいることを常に確認した。仕事中も移動中も、指紋が消えるほどといえば大袈裟だが、取り憑かれたようにページを更新し続けた。ありがたいことに彼の写真は消されないまま残っていた。
悩み抜いての一週間、自分たちに猫を飼う資格があるのか、その責任を負えるかなどを自問し話し合いまた自問し、けれど最終的には踏み出してみないとわからないねというありきたりの答えに行き着いた。もちろんその命には責任を持つとして、あとはなるようにしかならないと、わたしはペットショップに行き晴れて彼こと愛猫を家族に迎えることとなった。
まだ生まれて四ヶ月もしない子猫は奔放の塊だった。もちろん愛らしいがその奇想天外な振る舞いにわたしは翻弄され、気圧された。
犬は平面を足場にするが猫は3Dで動く、天井にこそしがみつきはしなかったけれど、カーテンに爪をたてよじ登る姿を見た途端、わたしは全てを諦めた。
愛猫はもりもりと飯を食い、食べた物量以上の糞をし、毛をあたりに撒き散らし、壁紙をやつざきにした。不思議と革製のソファだけが難を逃れていた。
あらゆる場所をその歯牙にかける愛猫だが愛らしさの塊だった、目に入れても痛くないとはこのことか、ヘソを天に向け寝ている姿なんか愛らしさで新たな銀河が生まれるレベルだった。わたしは文字通り愛猫を猫可愛がりした。
人は猫を躾けない、従順なしもべとなるべく猫に躾けられていく。わたしはそれに気付きながらも受け入れた、だってお猫様なのだもの。だってかわいいがすぎるんだもの。こうして愛猫は我が家の絶対君主となり法となった、我が家は猫を頂点に回っていった。
何一つ欠点のない愛猫であったが、唯一歓迎せざるものがある、血便だ。
正しくいうと排便を済ませた後に、猫砂やまたは床に血と粘液が混ざったものがぽたりと落ちていることが月に一、二回ほど見られるようになった。
もちろんそのたびに医者に走った、リュックタイプのケージに愛猫を押し込んで腹側に抱え、医者までの道を行くわたしはさながら竈門炭治郎だったろう。
鬼化した禰󠄀豆子のように牙を剥きし、不満を訴える愛猫を宥めながら歩く。時には「となりのトトロ」のエンディング曲『さんぽ』を大きく口ずさみながら。
腹に猫を抱え大声で歌うわたしは不審者だったろう。わずか十五分とかからないその旅路で、外界を嫌う愛猫は普段の鈴を転がす声ではなく、猫猫しい「ナアア」という低い声で泣き叫んでいた。
血便の原因ついては毎度わからずじまいだった。もちろん検便もしてもらうのだが、便自体に異常はないの一点張り。とりあえずの整腸剤や炎症止めをもらい、数日それを飲ませ経過を見るというもの。
ちなみに血便をしても、愛猫については毎度ケロリとして食欲も落ちなかった。血便よりも病院へ行くこと自体が彼にとっては負担となるようで、改善が見られないこともあり、そのたまの血便はよくないことに我が家で常態化して行った、「またか」といった具合に。
月日は流れ、愛猫は今年の6月で4歳となった。人間の年齢に換算すると32歳ほど、青年期の後半といったところだろうか。彼は胸元にたっぷりとしたたてがみを蓄え、太々しいほど猫然とした、何より愛くるしい猫に成長していた。
ある秋の日、わたしが起きて彼のトイレ周りを掃除しようと顔をあげると、そこにはスプラッタな光景が広がっていた。いつもの「またか」な血便では括れないほどの出血がトイレ周りに落ちていたのだ。赤々とした赤すぎるほどの赤、そのまがまがしさに流石に平静を失い、わたしは動物病院へと向かった。
「先生こんなに、こんなにひどいんですよ!」
モンペというか、モンスター下僕のわたしが担当医に詰め寄るも、答えはいつも通りの「さしたる原因がわからない」の一点張りだった。いつものように整腸剤を処方され、これ以上探るのであれば内視鏡検査をするしかないとも言われた。
余談だが、かかりつけの担当医は『進撃の巨人』に出てくるハンジ・ゾエに似ている。ハンジ曰く、ここには内視鏡設備がないので別の病院を紹介する、また人間と違って保険が効かないので高額になるとも言われた。渡韓が二回ほどできる金額にわたしは少し逡巡した。
人間のエゴというとどでかい話だが、そのエゴを思った。
嫌がる愛猫を無理やり連れ出して、彼にばかり負担のかかる内視鏡を本当に今行う必要があるのか。結局のところ愛猫のためというより、自分の不安を解消するだけの行為に思えてた。
一方でわたしには尽きない後悔がある、母の死だ。
わたしは7年前に母を亡くしている。母の死因は癌だった、罹患していると分かった時はレベル4で、転移も確認されだいぶ進行している状態だった。早期発見できていればという「IF」が今でも色濃く残るわたしだったので、人間のエゴだなんだという雑音は捨て置いて愛猫の精密検査に踏み切ることとした。
愛猫の精密検査の日、嫌がる愛猫をケージに押し込め車で向かった。車の振動か匂いか、愛猫はのっけからひどく嫌がりケージの中で暴れていた。不満げな声でしきりに鳴いていて、その姿に胸が痛んだ。
通院も検査も猫にとっては負担だらけだ、検査内容やその過程を猫語で伝えてくれるわけではない、人間のエゴという言葉の重みを抱えながらわたしは車窓を眺めた。
愛猫と私は言葉を介さないがそれ以上の何かで通じている、そう信じているけれどそれは私の勝手な願いでしかない。病院に着いた頃には愛猫はすっかりと萎縮していて、ケージの奥で赤茶色の小さな毛玉になっていた。
紹介先の病院はなんというか、有り体に言うと金の匂いがプンプンとした。
ホテルのロビーエリアのようなゆったりとしたソファがいくつもあり、ありがたいことに猫専用の待合室までも据えられている、病院というよりちょっとした保養施設のような感じ。受付担当までいて、にこやかにアテンドしてくれる始末だ。
「猫ラウンジ」とされた真新しい待合室に通された時には、安堵しつつも愛猫も私もぐったりとしていた。
医師が現れ、診察についてのあれこれを急ぎ説明された。うんうんと聞いていたがあまり頭には入らなかった。いきなり内視鏡というわけではなく、血液検査にレントゲン、エコーをした上で内視鏡の必要をまず判断しましょうとそんな話をしていたと思う。
医師は頼れる感じだが、なんとなく上から話す人という印象を受けた。どちらかというと好きになれないタイプの人だったけれど、わたしは愛猫をしばし金のかかった病院に預けることとした。
近場のモールに行き早めの昼食を食べた。
昼食どころか愛猫は朝食も抜いている、それを思うと申し訳なかったけれど、悲しいかな箸は進んだ。
モールの中庭にはツリーも出ていてもうそんな時期かと思った。晴れ晴れとした昼間の空に伸びるクリスマスツリーは、カメラに収めてもちっともらしさが感じられなかった。
愛猫が家に来てからの四年間、愛猫を中心に全てが回った。家での会話は愛猫の話ばかりで、猫が来る前の自分たちが何に重きを置いていたかわからなくなっていた。
猫は犬と違い、外に連れ出すことがほとんどない。一緒に出掛け、季節の移ろいを外で感じることはないけれどそれでも愛猫とともに日々を過ごしている。
寒くなると猫用のこたつの中で丸くなり、夏は床に落ち──そういった愛猫の姿を通して、それぞれの季節が巡りゆく様をともに味わっていたんだとそれらをぼんやりと思った。
予定よりも早めの呼び出しに診察室へ戻ると愛猫の姿はなく、例のどことなくいけすかない感じの医師の姿だけがあった。
結果、血便の原因は「トリコモナス」という原虫であるだろうと告げられた。
原虫(げんちゅう)、耳慣れない言葉だが寄生虫の一種に当たる。単細胞の微生物で、ヒトや動物に寄生して様々な症状を引き起こす厄介者だ。愛猫の便の中にも、この原虫のトリコモナスが見られた。
検便はかかりつけの動物病院でも何度かやっていたけれど、このトリコモナス原虫は新鮮な便でないと見つからない特性を持つ。たとえば朝一に採取した便であっても、検査に至るまでの数時間の間に検出不可になってしまう、検出率が極めて低いレア原虫なのだ。
今回、検査の中で肛門からの触診を行い、その過程で付着した便を見たところこのトリコモナスが検出されたとのこと。つまりはラッキートリコモナスだった。
原因特定に喜んだのも束の間、このトリコモナス原虫は完全駆虫が困難とされているものだという。主な対処方法は投薬なのだが、一割程度の猫に副作用が見られるとのこと。さらに薬が外国製で非常に苦いというのだ。しぶしぶ薬を飲んでも完全に駆虫されるというものではないという、条件つきというか極めて難易度が高い原虫という印象をわたしは受けた。
医師の見立ては症状が極めて悪化しないのであれば、このまま様子見とするのがいいだろうとのことだった。
トリコモナスは猫同士で媒介されていく。
多頭飼いやペットショップ、他の猫と接する中で愛猫はどうやらこの原虫をもらってしまったらしい。もしかしたら愛猫の母猫や同居の猫が、このトリコモナスを保持するキャリアだったのかもしれない。子猫から成猫になるなかで段々と症状が軽くなるケースが一般的だと聞くが、愛猫の場合は症状が出続けていることとなる。
結局この日、内視鏡検査は行わなっかった、愛猫に重ねての負担をかけるわけではなく、また原因とされるものも特定できたけれど、一方で飼い主として能動的にできる何かがなく、なんとも未消化の感情を抱えたまま家路へ着いた。
半日を費やし家に帰ってきた頃には、愛猫はすっかりと人間不信の猫になっていた。いつもご飯が出ると真っ先に飛んでくるのに、この日は口元に運んでもなかなか食べようとしない。距離をとり、くるりとしたつぶらな瞳でわたしを胡散臭いものでも見るような視線を向けてきた。
五キロばかりの小さな体で、言葉が通じないなか、血液検査にレントゲン、エコー、さらには肛門からの触診と恐怖に耐えたのだと思うと胸が詰まった。避けられながらもいつもより丸くなった猫背を、わたしは撫で「ごめんね」と自分勝手な言葉を吐いた。
こうしてわたしと愛猫の長い一日は、なんとも歯切れの悪い結果と共に幕を閉じたのである。
検査から数日がたった、病院でのストレスからか、愛猫は血便を繰り返している。朝起きて床に落ちた赤い染みを見つけては軽く絶望する。
わたしたちは日々、どこか過信して生きている。
医療だったり科学だったり、皮肉をこめて人間様と呼ぶが、その能力というか作り出したものたちを万能だと思い込んでいる。近年に至ってはスマホやAIの普及によって、その過信がより色濃くなった気がする。
猫の血便だって「薬を飲めば治るでしょう?」とタカを括っていた部分があった、けれど現実はちっぽけな原虫一つにすら抗う術がないのだ。
結局は愛猫の体力に縋るしかなく、また愛猫と原虫とが上手く共存してくれることを願うしかない。まさに「他力本願」「猫力本願」だ。未消化な想いは空を掻くようで、自分の無力さにわたしはただただ舌打ちする。
通院時のストレスが凄まじかったのか、愛猫はここ数日血便を繰り返している。床に落ちた赤い染みを拭き取りながら、わたしはこのどうしようもない不安の重さにため息を吐く。その隣で愛猫は普段通りにドライフードをモリモリと食べている、その変わらぬ姿に少しだけ励まされるけれど不安は尽きない。
愛猫の中には原虫が巣食い、そのせいでわたしの中には不安がどっしりと座している。愛猫もわたしも違ったかたちで何かを宿す、こじつけだけれど同じ何かを抱えるわたしたちの絆はきっと強くなっていく(のだと思いたい)。もちろん猫はそんなことすら知らぬ顔をして、丸くなって眠り、時折頭を掻くだけなのだけれど。
わたしと猫とトリコモナス、この三角関係は今しばらく続きそうだ。
*余談と補足
・猫に寄生する『トリコモナス』についてはこちらのブログがとてもわかりやす内容でした→http://well-ahp.com/2018/03/-kvid03581mp4.html
・猫のトリコモナスと、人の性感染症の原因となるトリコモナスは別の病原体だとされるそうです
・同じ症状が見られる猫と猫の民の一助となれば幸いですが、個体差がある話なので必ずかかりつけ医と相談して治療の方針を定めてくださいね。
わたしの猫もあなたの猫も、誰の猫でもない猫もどうか幸せでありますように!
*お知らせ
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今回が初参加となります、持ち込み作品は一点ですがお越しいただけると幸いです。詳細はこちらから