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【前編】推しが死ぬ映画を映画館で11回観たひとの1年間の記録 ~配信開始おめでとうございます~


※この文章はタイトルからもお察しの通り、某呪術アニメ映画の盛大なネタバレを含みます。固有名詞や具体的な展開には極力触れませんが、察しのよい方であればポスターを見た瞬間「あ、このキャラ亡くなるんだ……」と理解できるレベルで配慮が行き届いておりません。タイトルを見た時点で「推し」が誰のことかわかる方、本記事を笑って読み流せる方、同じ傷を舐め合っていただける方は、何卒よろしくお願いいたします。


この文章の主な登場人物

・推し…死ぬ。
・私…桐崎。推しが死ぬ映画を11回観る。
・友人A…高校からの親友。
・友人B…好きになったキャラクターが9割死ぬ。
・友人C…筆者をよく2.5次元ミュージカル観劇に誘ってくれる。
・バ先の皆様…とってもやさしい。
・母と兄…母と兄。


はじめに


推しが死ぬ映画を映画館で11回観た。
という一文から始まるショートエッセイを少しまえに書いた。

そのエッセイというのは、所属同人の同人誌へ「メディアミックス」というテーマで書いた1000字にも満たない簡単なもので、内容なんてなにもない、「おしがいっぱいかつやくして、はなばなしくちるえいがを、たくさんみました。よかったです。」という小学生の作文レベルの文章だったのだが、それが思いのほかおもしろがってもらえたので驚いた。読者のかたから「桐崎さんも『推し』をお持ちなんですね!」とお声を掛けていただくという経験もしたし、同人メンバーも推しの話を出した途端「ああ『某呪術漫画』の……」と生暖かく察してくれるようになった。いちファン兼いち趣味創作人(そうさくんちゅ)としてたいへんありがたい限りである。


無論、当の映画はすでに上映を終了し、DVDなどの媒体も発売されている。いまさらなんの関係もない私がやいやい言ったところで、素晴らしいスタッフの皆様によって製作された素晴らしい作品である事実に変わりはないのである。ではなぜ、とっくに上映終了した映画に関して、いまになって文章を書いているのか。



そう、なにを隠そう実はその「推しが死ぬ映画」が、上映からちょうど1周年にあたる本日2022年12月24日に、ついにAmazonプライムでの独占配信が開始されたのである!!!!!!!


パッケージが流通しているとはいえ、世は大インターネット時代。多くの人々がサブスクリプションで映像作品を楽しむ昨今、インターネットでの配信が始まるということは、大好きな作品、そしてなにより推しの命の輝きがより世間に認知される、たいへん喜ばしい機会であるといえよう。いちファンとして、その記念すべき日になにかお祝いをしたいという気持ちになるのも致し方あるまい。


ゆえに本記事は、せっかくだから映画館で「推しが死ぬ映画」を観た11回ぶんぜんぶ記録に残しとくか、という安直な思いつきから生成された、単なる賑やかしのひとつである。ま~じで同じ映画を延々観続けた日々の記録の羅列に過ぎない。考察もしていなければ有益な情報もなにひとつないので、ほんとになにも期待しないでほしい。


ただ、個人的に2021年は激動の1年間であったので、その1年の締めくくりに公開された「推しが死ぬ映画」が、私にとって大きな活力であったことは事実である。割と冗談ではなく、21年を乗り越える唯一の希望が「推しが死ぬ映画を観ること」だった。11回という数字はべつに誇れるものでもなんでもないし、傍から見れば滑稽で愚か極まりない行為であることは承知のうえだが、あの2021年をなんだかんだ乗り越え、またこうして2022年を漫然と終えようとしているのは、間違いなく「推しが死ぬ映画」のおかげである。


その感謝の意を拙いながら表するとともに、配信開始のお祝いのひとつとして、暇潰し程度にご笑覧いただけたならそれに勝るよろこびはない。ついでに、ここから興味を持って「推し」の活躍を実際にご覧いただけたなら、大好きな「推し」の死を大きなスクリーンで観ることだけを糧に生命を繋いできた人間として望外の幸福である。



「推し」と某呪術映画の概要


まず前提情報として、「推し」と肝腎の映画について簡単にさらっておく。


「某呪術映画」とは、某週刊少年誌で絶賛連載中の「某呪術漫画」を原作とした、劇場版アニメーション作品である。人間の負の感情から発生する「呪い」を祓うことを生業とする、呪術師たちの死闘を描いたダークファンタジー作品である原作漫画は、2020年秋にテレビアニメ化され、21年3月末まで2クールに渡り放送された。


その魅力的なキャラクターや先の読めないストーリー、衝撃的ながら深い余韻を残す展開が本作の大きな魅力であり(※個人の感想です)、そんな世界観がダイナミックかつ美麗な映像でアニメ化されたとあって、放送中はかなりの話題を呼んだ。そんな視聴者の期待に応えてか、テレビシリーズ放送終了とともに製作決定が発表されたのが、筆者の心を千々に乱すこととなる「某呪術映画」である。


さて、そんな某呪術漫画における私の「推し」というのは、誤解を恐れず端的に述べるとすれば、選民思想の教祖である。

たいへん高い能力を持つ呪術師であるものの、過去にいろいろあった結果大量殺人を決行。その後「新世界」を創造せんと大規模な呪術テロを企てる。すなわち、本作における悪役が、筆者の推しだ。過去を勘案したとしても正当化できないくらい、もうめちゃくちゃに悪いやつなのである。


そんな「推し」は、テレビシリーズではほぼ登場しない(登場しているともいえるのだが、アニメ派の皆様に新鮮な絶望を味わってもらいたいので、ここでは詳細についての言及は避ける)。テレビシリーズにおいて名前は折々で登場するが、具体的な人物像はブラックボックスであった彼。そんな彼が物語に初めて現れ大暴れし、最終的に哀しくも晴れやかな最期を迎えるのが、このたび製作が発表された劇場版で描かれるエピソード、というわけである。


筆者は病の蔓延と卒論準備で茫然としていた2020年冬にアニメを視聴し、とあるキャラクターの美貌にまんまと嵌められ原作漫画を全巻揃えた、非常にミーハーなタイプの読者である。アニメ終了後も単行本が発売されるたびに購入して読んだり、グッズのぬいぐるみをときどき買ったりする、熱心とそうでもないの間を行き来しているような宙ぶらりんなファンであることをここで明らかにしておきたい。


アニメの1クール目が終わるまえに既刊はすべて読み終えていたので、当然「推し」が最終的に死を迎えることは把握していた。というか推しは本編の時系列でいうとわりと序盤で退場するので、今後もしアニメの続編が製作されたら推しが退場するシーンも観られるかもな、と期待と悲しみが入り混じった心持ちでアニメを視聴していた。
アニメに登場したキャラクターのグッズが発売され、アニメ視聴者がそれぞれの推しについて熱く語るなか、選民思想の彼を「推し」として愛している筆者も含めた人々は彼の存在について口を噤み(彼を語ることそのものが重大なネタバレになってしまうため)、SNSでは非常に濁した表現を用いて彼への愛を叫びつつ、いつか推しの存在をおおっぴらに語り思う存分グッズを購入できる日が来ることを、遠い目をしながら待ち望んでいたわけだ。


そんななか発表された劇場版だった。

SNSは狂騒を呈した。


私自身喜びが抑えられず、アニメ最終話終了直後に突然流れ始めた「劇場版製作決定!」というCMを目にした瞬間椅子から立ち上がった。彼を推す人間から見れば、その劇場版の内容が、彼の初登場から死までのエピソードを描いたものになることは明白だったのだ。冬から春、たった数ヶ月間のとはいえ、大好きなキャラクターのアニメ化を待ち望んでいたファンのひとりとして、その発表は「生きる希望」といっても決して過言ではなかったのである。


その時点ではまだ上映日は明らかにされていなかったものの、この映画を観るまではどんなにつらいことがあってもがんばって生きようと思えた。たとえ大好きな推しが命を落とすと知っていても、大きなスクリーンで彼の最期の活躍が観られるなら、どんなことでも耐えてみせる──なんて、浅はかな私はなんとも軽々しく決意したのだった。


その決意が特大のフラグになるとも知らずに。



上映前夜までのダイジェスト


(正直蛇足なのは重々承知のうえなのだけれど、一応前座として、2021年の筆者の身に起きたことを残しておこうと思う。やたら感傷的で無駄に長いので、いっそ目次で「記録」まで飛ばしていただいてかまわない。どうして「推しが死ぬ映画」にここまでの巨大で歪んだ感情を持つに至ったのか、その経緯をここに記しておく)


狂騒の3月末が終わり、未だ興奮さめやらない4月。筆者は大学院への入学を果たした。


中高生時代から夢見た、夢の大学院である。院生の境遇や研究のたいへんさは聞き及んでいるけれど、せっかくなら学問を究めたい。あわよくば、研究で食っていけたら御の字だ。そんなことを悠長に考えていた4月末、状況が一変する。


いろいろな──ほんとうにいろいろなことがあった結果、簡単にいえば家計が急変したのである。博士どころか、修士を続けられるかさえ微妙なラインだった。


春のド初めにそんなことになったものだから、一気に冷静になってしまった。正直将来についてはふわふわした夢しか描いていなかった。研究職に憧れはあったが、ワンチャンやってみて、なれんかったらそれはそれで、なんてお気楽に構えていたから、仮に何事もなく修士を終えていたとしてもそのまま進学したかはわからない。しかしいざ状況が一変し、真面目に将来を考えざるを得ない状況に置かれたことで、私がもしこのまま漫然と学問を選んだら、一家全員が路頭に迷う可能性が高いと気付いてしまったのである。ワンチャン研究職、だなんて言っている場合ではなかった。


遅かれ早かれ直面する現実だったと思っている。家計が変わる・変わらざるに関わらず、こうするのが最善だったといまでは確信している。しかしそれでも、想像もしなかった形で「人生」に放り込まれたという感覚は強く、強かった結果、私は思いきり拗ねた。


大学院に入るために髪も切らず遊びにも行かず、研究とバイトに4年間を費やしていたのに。家はぼろくそだし就職しないといけないし(筆者はこの世のなにより労働を憎んでいる)、夢のひとつだった職業は選択肢から除外したほうが得策だ。ドたまでケチがついてしまったから、ゴールデンウィーク時点ですでに、なにもかもがどうでもよくなっていた。


徹頭徹尾言い訳なのは承知のうえだが、いろいろ思い悩んでいると学問に取り組む意欲もなくなってくる。そもそもこの学問を選ばなければ金銭に困らず済んだのではなんて考え出し、そうなると学部4年間が、否、この学問をやると決めた中学以降の人生が──いやもしかすると私の23年間の一挙手一投足が家計を苦しめていたのでは云々なんて、この人生が丸々無意味だったように思えてくるわけで、完全なる責任転嫁、負のループだ。家も未だごたついており、考えなければならないことは山積みで、当時の私はわりと本気で、生きる意味がわからなくなっていた。


あれ、私ってなんで生きてんだっけ?



……あ、推しが死ぬのを観るためか。



あまりに滑稽で大袈裟なと思われる向きもあろうが、常に不穏な微風が吹いている心中に蓋をしながら課題や創作やアルバイトをこなし、ふと我に返って「もうぜんぶどうでもいいか」と天井の染みを数える日々のなかで、唯一どうでもよくなかったのが「推しが死ぬ映画」だった。人生の岐路を思い返しては後悔に襲われる一方、徐々に解禁される情報や、そのたび狂喜乱舞しているSNSを見ていると、ああ、公開までは生きていないとだめだな、という感情が甦ってくる。


ともすると友人やバイト先の皆様、家族とのやりとりすら放棄したくなったが、そこで「いや~推しが映画になるんスよ! まあ死ぬんですけどね! ガハハ!」と自分から言い出すことで、この世への呪いや憎しみを垂れ流さずに済んでいたのかもしれないと、いまになって思うのだ。


推しのことを考えている時間はほんとうに楽しかった。劇場公開日が決まり(年内、しかも12月24日だなんて夢のようではないか。そんなすぐ見せてもらってほんとにいいんスか⁉ アザマス!!)、キャストが発表され、新情報が出るたびにSNSで阿呆みたいに騒ぐ。学校では「もうすぐ映画……もうすぐ推しがしぬ……」と口走っては友人に介護され、バイト先では社員の皆様に「初日に観るんですか~?」なんてニヤニヤ話しかけてもらいながら、その裏で就活セミナーに参加したり、裁判所に出す書類を書いたり、大学事務室に通い詰めたりした。


もうぜんぶ面倒くせえな、と思うたび、でも推しはあんなに頑張っていたのだし、そんな推しの頑張り(※大規模テロリズム)が映画館で観られるのだから、なにがなんでも生きていなければ、と自身の軌道を修正する日々が続いた。初めて推しが動いてしゃべる映像が公開されたのは確か11月の初旬だ。主題歌までついたその特報映像を友人たちと視聴しながら、なんとかここまで来られた、と思ったのを憶えている。4月末のあの日から約7か月、このためだけに生きてきた。推しよ、私はほんとうに、あなたのことを心待ちにしていたんです。


12月。家のごたごたにも一応の決着がつき、私自身の大きな手続きも終わり、街にはクリスマスソングとともに某呪術映画の主題歌が流れ始めていた。友人Aの奮闘により上映初日のチケットも手に入り、バイト先へ24日を欠勤としたシフトの提出を終えた私は、まさに初陣に臨む武士のような心地で日々を過ごしていた。20日を超えたあたりからはもう緊張による震えと嘔吐感が止まらない状態である。髪も整え、比較的きれいな服も用意した。あとは当日まで事件事故に巻き込まれることなく、無事に映画館へ辿り着くのみ。滅多なことはないとわかっていても外に出るのが怖い。私のことだから絶対なにかやらかすと思っていたが、幸いおおきな問題もなくついに公開前夜、12月23日を迎えた。


12月23日は年内最後の登校日であった。友人らと最後の授業を受け、学校の前で別れる。手を振りながら友人が「明日頑張ってこいよ」と凛々しい笑顔で言うので、私も咄嗟に顔を引き締めて、はい、がんばります、と答えた。



記録

1回目 109シネマズ二子玉川(2021.12.24)【IMAX】


さて、ついにやってきた公開初日である。以前から、高校時代からの戦友であるAに「どうか映画館で私の手を握っていてくれませんか……」と懇願していたため、この記念すべき戦の日はAに同伴してもらうことになっていた。Aは筆者と違って立派な社会人なので、Aの退勤に合わせた夜の回を予約している。24日0:00時点から一切のネット情報を遮断し、すでに若干眼球を潤ませつつ、筆者は夜の都会へと繰り出した。道中、同じく夜の街へ繰り出す人々のなかに推しと同じ髪型の女性を発見し、もしやあなたも……?と勝手に思いながら緊張性の腹痛と戦いつつ電車に乗る。


初鑑賞の舞台となったのは「109シネマズ二子玉川」という映画館である。初めて訪れる館だったのだが、夜ということもあってかどことなくラグジュアリーな雰囲気で、広々としたロビーが印象的な素敵な場所だった。チケット戦争を制してくれたAにぺこぺこ頭を下げつつ(クレカを持っていない筆者のかわりに爆速でチケットを予約してくれたうえ、当日の流れもすべて設定してくれた。絶対に仕事ができる人間だと思う)、たくさんの観客とともにおまけ冊子を頂戴し、ぶるぶる震えながら満席のシアターへ入った。


しごできのAが取ってくれたのは「IMAX」という特殊な上映スタイルの回である。筆者もあまり詳しくはないが、簡単にいえば通常のスタイルより映像が綺麗で、また音響の臨場感も増し増しになっている、と考えればよいだろう。


チケット予約完了の連絡をもらったときすでに「とりまIMAX取っといたから。あと席はここね」と報告は受けていたのだが、実際に着席して驚愕する。前から5列目、中央ド真ん中なのだ。しかもスクリーンがめちゃくちゃでかい。こんないい席で推しを浴びたら推しが死ぬまえに自分の息の根が止まるのではなかろうか。


緊張と興奮のあまり「推しが、推しが!」としかしゃべれないのをAに宥めてもらううち(はいはいそうだねー大変だねーというかんじだった。なんなら「席ちょっと前過ぎたかな」と冷静に反省していた。PDCAが自然とできているあたりやはり間違いなく仕事ができる)、複数の宣伝映像を経て、シアター内は闇に包まれた──。



感想としては、圧倒的、のひとことに尽きた。


原作で展開を知っているとはいえ、やはり映像になると臨場感が桁違いである。あのキャラもしゃべるしこのキャラもめちゃくちゃ動く。推しが出てきたときは頭が真っ白になりたぶん呼吸が止まった(推しの初登場時、隣に座ったAに「おい出たやんけ」みたいなかんじで肘でつつかれた。出ましたね推しが)。そこから呼吸をした記憶がないので、おそらく息を止める系のギネス世界記録は更新したと思う。


映画ならではのシーン、ずっと観たかったシーンが、前から5列目から観るめちゃくちゃデカくて綺麗な映像で全身に叩き付けられる。おまけに音響もすさまじいので、衝撃波か?というくらいの迫力に呑まれてしまって、終始茫然の有様だった。肝腎の推しの活躍もまったく目が追い付かない。キャストさんの演技も、製作陣のこだわりも追い切れない。目も耳も足りない。ただずっと頭の片隅に、ほんとうに観られたんだな、というやけに静かな感情があり、推しが彼の人生の終わりを迎えるシーンも、大きな動揺なく見届けることができた。……正しくは、推しの表情と声色を、現実感が湧かないままひたすら凝視しているだけだった。推しは原作の通りに死を迎え、彼のいなくなった世界で、主人公たちは前を向いて生き続けていた。



そんな調子だったから、きっと恥ずかしいくらい泣いてしまうだろう、という当初の予想に反し、私とAはけろっとした顔でシアターを出た。もちろん余韻はすさまじく、よいものを観たという興奮は全身に渦巻いていたけれど、「いや~すごかったねぇ」程度のわりあい落ち着いた言動を、その時点までは保てていたと思う。


映画のパンフレットだけは買いたかったから、Aに頼んで(快く了承してくれた。優しい)物販へ続く長蛇の列に並んだ。ほんとうに長い列だったので2、30分は並んでいたはずだ。列の進行を待つ間、いやあすごかった、やっぱり推しは格好よかった、特にあの戦闘シーンはほんとうに……と話していた最中、突然、いっそおもしろいくらいに涙が出てきた。


推し、すごくかっこよかった。漫画で読んで以来その生き様が苦しくて、悪いやつだと理解している反面、不器用なほど真っ直ぐで繊細な彼に幸せになってほしいとずっと思っていた。やり方は決して容認できないけれど映画でもとても頑張っていて、終始悪役として百点満点の悪者感を醸し出し、最期までとても魅力的だった。しかし結局、その誤った頑張りは成就することはない。成就したからといって彼が幸せになるとは思えないけれど、それでも彼の、人生を賭した頑張りが報われることはなかった。


あんなにお茶目にしゃべって格好良く戦っていたのに、ほんとうに推しは死んでしまったのだろうか? あんなに魅力的な彼はほんとうにもう出番がないのか? まだ若かったのに、彼の人生には終わってしまったのか? ほんとにもう会えないんだろうか。



溢れる涙を拭いながら「推し、ワンチャン生きてるってことはない……?」と呟いているうちに我々の番になり(Aは「幻覚見始めちゃった……」と言いながら優しく背中をさすってくれた。前に並んでいた男性ふたりには悪いことをしたと思う)、私は豪華版・通常版2種類のパンフレットを1冊ずつ購入した。なかにポスターが付いているかいないかの違いで、ぶっちゃけ内容にはなんの差異もない。店員さんが若干困惑する様子を見て自らの愚行を悟ったが、推しの晴れの日なんだからまあいいかと開き直った。我が子の写真ならいくらでも欲しい親心と一緒である。ひとしきり泣いてすっきりしたので、改めてAへお礼を述べ、晴れ晴れとした心地で劇場をあとにした。


はずだった。



ほんとうに気を張らねばならないのはこれからだと気付いたのは、夕食を摂ろうと入店したファミリーレストランでのことだ。食事を待っている間また盛り上がり、いやあほんとうによかった、また明日にでも観にいきたい、私ほんとにこの映画を観るためだけに今年なんとか生きてきて──そこまで話して、はっとした。


あれ私、生きる理由、これでなくなったわ。


あとふた月もすれば就職活動が始まる。それと同時に修士論文に向けて研究も大変になるだろう。就活にも研究にももはやなんの展望も見いだせず、その後の人生もべつにやりたいことは思いつかなかった。強いていえば一切の労働をせず、早めにこの生を終えるのがいちばんの夢だ。原作である呪術漫画の今後は非常に気になるが、いちばんの推しはこのとおり本日を以てその生を終えたので、まあ最悪結末を見届けられなくても諦めは付くかなと勝手なことを考えている。


推しの死を見届けるためだけに、今日まで生き永らえてきた。映画はまだ何度か観たいが、では上映期間が終わってしまったら、私の生きる理由はほんとうになくなってしまうのでは?


やばばじゃん。


それを聞いたAは唖然としたのち、「やばいねえ」と言った。そう、やばいのだ。これがいわゆる燃え尽き症候群かもしれない。プレートの上の肉をカットしながら、パスワード教えとくからもしものことがあったら私のSNSアカウントで各所に連絡してくれ、あと見られたらやばい書籍類はぜんぶおめーにやる、と口走ると至極面倒そうな顔をされた。


あの禍々しいコレクションを親に見せられるわけがないので、Aに断られると非常に困る。なんとか説得できないかと頭を巡らせていたら、「まあなんとかなるんじゃないの」というAの声がパーテーション越しに降ってきた。そうかなあ。そうだろうか。「まあ上映期間中は頑張るわ、とりま明日もっかい観てくる」と頷いたら、Aはいつものように「おう頑張れ」と言った。



2回目 キネカ大森(12.25)


無事推しの死(1度目)を見届けた翌日、有言実行の権化(学業と労働と文筆を除く)である私は再び映画館へ向かっていた。昨夜帰りの電車内で上映館を検索し、当日券でもなんとか観られそうな場所を探したところ、行き慣れておりかつ席に余裕がありそうだったのがこの「キネカ大森」だったわけである(名画座上映が有名な小ぢんまりとした映画館であり、映画通っぽい落ち着いたお客さんが多いのがありがたくてよく通っている)。


話題作かつクリスマスということもあってか、普段よりもカップルや友人同士、親子連れが多いように思われる。そして大変混みあっていた。さすが推しが死ぬ映画、みんな推しの魅力に気付いているんだなと頷いているうちに入場が開始され、入り口でおまけ冊子を渡された際に「もう持ってるんでだいじょぶです」と咄嗟に応えたら、担当のお姉さんは一瞬きょとんとしたのち完璧な笑顔で通してくれた。さすがプロだと思った。


取れた席はたしか後方通路側だった。場内はほぼ満席である。期待感からかどことなく朗らかな場内で、前日観たときとまったく同じ展開を見せる映画を見守った。


記憶にあるものと同じ映像が繰り広げられるわけだが、前日は茫然自失のあまり気付かなかった、細かな部分にいろいろと目が行った。このキャラクターの動作がいいなとか、ここではこんな表情をしていたのかとか、物理的にも少し遠巻きにしてかなり冷静に観察することができる。昨日より落ち着いた音響設備も、映画を観ている自分を客観視するのに合っていたのかもしれない。……まあそんな余裕も、推しが登場してからはどっかいくわけだが。たくさん動いていて、たいへんお茶目で、とても格好よかった。


物語が佳境に入り、いよいよ推しが死ぬというあたりに差し掛かったころ、ふと鼻のあたりが痛くなり、ああ、これ以上観たくないな、と思った。昨日はこのシーンのあとに推しが死んだ。なんとかここで、推しが生きるルートに分岐しないだろうか。嫌だなぁ、と思っていてもやっぱり推しから目を離すことなどできず、再び緩みそうになる涙腺に力を入れて耐えた。


昨日同様推しは死に、映画は深い余韻を残して終幕した。かろうじて落涙だけは避けた。



3回目 イオンシネマ釧路(12.31)


「ほんとは26日にも映画館の前まで行ったんだよ。でも直前で『この調子で観続けたら映画終わるまで毎日通うことになるな』って我に返って、自分を律して帰りました」と報告したら、めちゃくちゃ笑っている母に「いい判断でした」と褒められた。



年末の帰省早々、母と兄に「推しが映画に出ているんですが……一緒に行っていただけませんか……」と頼んでみた。なんとしても推しの晴れ舞台をいろんな人に観せたかったのだ。できるだけ多くのひとに、私が感じているのと同種の苦しみを味わってほしい。


母はテレビシリーズだけならすべて観ているというし、兄は原作漫画をひと通り読んでいるが映画化されたエピソードのみ未読らしい。新鮮な推しをぶつけるには最適な人選である。ふたりとも快諾してくれたため、事前に買っていた前売り券2枚(推しが印刷されたやつと推しの友だちが印刷されたやつ)で母兄ぶんを奢った。推しが死ぬ映画を愛する者としてこれくらいするのは当然である。私のぶんは母が出してくれた。



私の地元である釧根地区には、私の知る限りでは映画館はひとつしかない。イオン(私はポスフールと呼んでいるし母に至っては未だにサティと言っているが正しくはイオンである)に併設されたそれなりに大きな、幼い頃から何度も訪れた思い出の映画館で、家族3人横に並んでの鑑賞となった。あまり混んでいる様子はなかったが、大晦日というタイミングゆえだったのか、釧路の街の寂れ具合を体現していたのかは微妙なところである。地方都市ではまだ、推しの魅力がじゅうぶんに広まりきっていないのかもしれない。


さすがに3回目ともなると、頭のなかでこれからの展開を思い描くことができるようになっていた。そうそう、こういう流れで、あ、キャラクターのこの動きはいままで気付かなかったな……と思いながら冷静にスクリーンを眺め、推しが登場した瞬間推しにしか目がいかなくなった(推しが出た瞬間、隣に座った母に「出たやんけ」みたいな感じで肘で突つかれた。出ましたね推しが)。そろそろ推し以外の細かなディティールにも目を向けねばと思いつつ、やはり鈍く痛む感情を抑えながら、3度目の推しの死を見届けた。


推しが死ぬ気配を見せ始めたあたりからちらちら視線を向けられている気配はあったのだが、場内に明かりが戻ったタイミングで隣を見たら、母がものすごい顔で私を見ていた。どうでしたか、と訊ねると、すごい顔のまま「あんたが言ってたひと……死んじゃったけど……」と言ってきたので、「そうだよ」と答えたら、かわいそうなひとを見る顔で「かわいそうにねぇ」と言われた。


兄は兄で、彼の好きなキャラクターの活躍に魅了されてしまったらしく、しばらく遠くを見たまま上の空になっていた(○○さんかっこよかったねえ、と話しかけたら、遠くを見ながら「ウン」と言っていた)。どうやらお気に召してもらえたらしい。推しについて意見を求めたところ、「君はあれが好きなのか。なるほどね」と言いながらかわいそうなものを見る目で私を見ていた。


帰宅後、大晦日ならではのご飯を食べながら、誰が言い出すともなく、VODサービスで某呪術アニメテレビシリーズの鑑賞会が始まる。オープニングが流れ、一瞬だけ推しらしきシルエットが映し出されることに気付いた母が、いちいち「○○さん(推しのこと)出てるよ!」と一時停止を試み9割失敗していた。ひと足先に母は就寝したが、結局兄とわたしでテレビシリーズを観ながら新年を迎えた。



4回目 吉祥寺プラザ(2022.1.15)


ぶっちゃけ元旦時点から「4回目が観たい……4回目が観たい……」と歯噛みしていたのだが、地元の映画館は家からそれなりに遠いし、電車もなければバスも2時間に1本の有様だし、新年早々そんなこと言ったらさすがに怒られるだろうことは予測できたので、東京の家に帰るまでなんとか必死に耐えた。その後なんだかんだやることがあり、時間ができたのがこの時期だったわけである。


都会のいいところは映画館がいっぱいあることだと思う。せっかく何度も通うなら遠出も兼ねて行ったことのない映画館に行こうと思い立ち、人生で初めて吉祥寺の街に降り立った。お目当ては「吉祥寺プラザ」という名の老舗映画館である。全席自由席という新作映画館では珍しいシステムで、その佇まいにもたいへん味のある素敵な場所だった。半券も古めかしいデザインで非常にお洒落である。


2022.1.15 筆者撮影


巷では某呪術アニメに出てきたとある映画館のモデルと噂されているそうで(見比べると確かにとても似ている)、うきうきしながら入場開始を待つ。日曜ということもあってかカップルや家族連れで非常に混雑しており、私が入ったときにはほとんどの席が埋まっている状態だった。後方通路側になんとか席を見つけ、座ってみたら異常に椅子の座り心地がいい。とってもいい雰囲気の映画館だなあ、ほかの映画観るときまた来ようかな、と考えていたら、すっかりお馴染みになった冒頭シーンが始まった。


年季の入ったシアターで観る映画も、また違った味があってたいへんよい。映画館には頻繁にいくほうだとは思うのだが、同じ映画を異なる館で観ることで、ようやくそれぞれの映画館の持ち味や特徴がわかってきたような気がする。音響ひとつとっても、鮮明に聴こえるシアター、痛々しいほど鋭い音がするシアター、ここではないどこかを覗き込んでいるような気分になれるシアター等々、さまざまあると気付かされた。


しっかり傾斜の付いたシアターの、かなり上からスクリーンを見下ろしながら、遠くから見守るような気持ちで推しの最期を見届けた。推しのおかげで新たな発見があったなとほくほくしつつ、穏やかな気持ちで帰路に就いた。



5回目 TOHOシネマズ渋谷(1.18)


新学期である。推しの死をよりたくさんのひとに観てもらうべく、授業後友人Bに「推し……観にいきませんか……」とお伺いを立てたら、「お、いいよ」と即座に席を予約してくれた。つくづく友人に恵まれている。


Bは私同様漫画やアニメが好きで、旧年中から私の痴態をやさしく見守ってくれていた信頼できる友人のひとりである。私が推しに毒されたタイミングで全巻貸して読んでもらったので、当然原作エピソードは読了しており、私の推しが死ぬことも知っている。そしてなぜかBが好きになったキャラクターは高確率で死ぬので(学部時代はときどき「昨日推しが死にました」と言って黒コーディネートで登校してきた)、複雑に渦を巻く私の感情も理解してくれる得難い存在なのだ(私の推しのことも気になってはいるが、死ぬとわかっているので必死に目を逸らしているらしい)。なお某呪術漫画におけるBの推しもまた故人である。


大都会渋谷、しかも夕刻の上映回とあって、制服姿の学生や若いカップルが非常に目立つ。某呪術映画を観るのは今日が初めてだというBと「楽しみだねぇ~」なんて話しているうちに上映が始まったわけだが、なんとBを挟んで隣から延々とポップコーンを食べる音が聞こえてくるのである。も~~ずっと食ってる。延々と食べているのがわかる。いやそんなに食べる? そもそもそんな延々と食えるだけの量入ってた? と思わず詰め寄りたくなるくらい音が止まない。私でそうなのだからBはもっと気が散っているだろう、申し訳ないことをしたと思いながら、すでに一挙手一投足を思い出せるようになった推しの勇姿を目で追う。延々ポップコーン音がしているとはいえそれを打ち消すくらい推しはかっこい──いややっぱうるせえな。

世の中にはいろんなひとがいると思った。推しの活躍を落ち着いて鑑賞したいのであれば、極力小規模の映画館へ足を運んだほうが得策かもしれない(※個人の感想です)。もちろん、スクリーンは大きいし音響も申し分ない、とっても素敵な映画館であった。


ポップコーン音を聞きつつ、せめて推しの最期だけは集中して観させてくれと思っていたところ、いざ推しの最期に差し掛かったら周囲から映画のセリフ以外の音が消えた。都合のよい聴覚でほんとうによかったと思う。ポップコーン音とともに映画は終わり、明るくなったシアターで「また推し死んじゃったな~」と思わず呟いたら、「たいへんだねぇ」とBが頷いていた。Bから観ても推しは格好よかったそうだ。楽しんでもらえたなら大大大満足である。


駅までの帰り道、ポップコーンうるさくなかった?と訊ねると、Bは特に口調を荒げるでもなく、「ずっと食べてたねぇ」と困ったように微笑むだけだった。なんて人間ができているんだろう、さすが数々の推しの死を受け容れてきた人間は器の大きさが違う。次いで、そういえばあなたの推しはいかがでしたか、と口にした途端、Bはまとう雰囲気を一変させ、先程の苦笑とは似ても似つかぬ笑顔で「走っている後ろ姿が最高でした」と供述した。やはり推しは人間をおかしくする電磁波のようなものを発するのかもしれない。



6回目 グランドシネマサンシャイン池袋(2.5)


(余談だが、6回目鑑賞の数日前、推しが誕生日を迎え、それを追うようにして映画の興行収入が100億円を突破した。ほんとうにおめでとうございます。)


私自身としては、自分はそこまでグッズ欲の強い人間ではないと思っている。まあときどきは推しの服を着ているテディベアを買ったり、もしかしたら推しが出るかもしれないガチャガチャを回し続けるなんてこともするが(別のキャラクターが複数体出たが推しは手に入らなかった。そのキャラクターが好きだという友人に1体献上したが、それでも手元に3体残っている)、買わないときは買わないし、入手に至らずともわりあいすんなり割り切れるほうだと思う。


アニメ映画ではよくあると思うのだが、来場すると先着で入場特典がもらえる、というシステムがある。特典はグッズだったりおまけ冊子だったりで、ロングランヒットともなれば第2弾、第3弾とどんどん新しい特典が登場する。宣伝のひとたちも上手だなあと思う。ご多聞に漏れず某呪術映画にもそういう特典があって、第2回鑑賞時に辞退した冊子がその第1弾特典にあたる。


第1弾が終了したのち第2弾特典も配布されたのだが、私は第2弾特典を手に入れるには至らなかった。まあ特典はもちろん嬉しいがそのために通っているわけではないし、5回目を過ぎたということもあってなけなしの理性が働き始めたため、あえてその期間に映画館へ足を運ぶことをしなかったのだ。



そんなわけで、比較的落ち着いた心持ちで粛々と生きていたある日、SNSを覗いたら、某呪術映画公式アカウントより「第3弾入場特典の配布が始まります!」との告知が出ている。ふーんどれどれ、どんなのがもらえるんだい、と興味本位で写真を見、戦慄した。


若い頃の推しを描いた超絶エモーショナルなイラストボードであった。


詳細は省くが、彼を推す人間がそのイラストを見たら、10人中13人は胸を押さえて崩れ落ちると思う。苦しい。エモいという言葉を使うひとの気持ちが初めてわかった気がする。どうやら2月5日から全国の上映館で、このつらすぎるイラストボードが先着順で配布されるらしい。


そんなのめちゃくちゃ欲しいじゃないか。


大急ぎで都内映画館の2月5日上映スケジュールを調べる。都会のよくないところはとにかくひとが多いことだ。ひとが多いので「先着順」なんてものは一瞬でなくなってしまう。すでにSNSは阿鼻叫喚であり、私のようなファンがみな同じことを考えているのは一目瞭然だった。配布開始当日は土曜日、さらに先着順とあっては熾烈なチケット争奪戦が繰り広げられることは明らかだ。しかし非常に不利なことに、私はクレジットカードを持っていない。当日券を買おうとしたって到底間に合わないだろうことは目に見えている。


やはり厳しいか、と諦めかけたとき──ふと気付いた。そもそもチケットというのは、多くの館で上映回当日のだいたい3日前から購入できる仕組みになっている。それはネット予約も窓口予約も同様だ。クレカで戦えないのであれば、3日前の朝イチに、劇場窓口で購入すればいいのでは?


そう気付いてからの行動は我ながら早かった。3日前の午前に家を飛び出し、映画館のチケット販売機で5日の朝イチの回を購入する(いま確認したら午前8時の回だった。普段午後にしか起きられない私としては気が遠くなるほどの早朝である)。その時点でもう空席は両手に収まるほどしか残っておらず、機械からチケットが吐き出されるのを見て心の底から安堵した。なんとか入場の権利を得るところまでは漕ぎつけたわけである。


いちばんの問題は、はたして私が早起きをできるのか、という点だった。せっかくチケットを持っていても間に合わなければ意味がない。結果過度の緊張のためか、当日目が覚めたのは朝の4時で、そこからのそのそ着替え、簡単にものを食べ、寒さに震えながら映画館に向かうと、まだ7時半前だというのに劇場前にはすでに長蛇の列ができていた。整列スタッフがいるでもないのに驚くほどきれいな列を成しており、かつ怖いくらいひとりもしゃべらない。その多くは女性だが、かなりの人数男性もいる。私が館の前に着いたタイミングでちょうど開館したらしく、眼前の列は一糸の乱れもなく、やはり粛々と館内へ吸い込まれていった。その最後尾に付きながら、すげえとこに来ちまったな、と思うと同時に、まあ推しならこれくらいにはなりますよね、という納得感が沸き上がってきた。神々しいとはこういう光景をいうのかもしれない。

https://www.cinemasunshine.co.jp/gdcs/


入場が始まり、無事お目当てのイラストボードをいただくことができた。嬉しいなあ、ああ推しがめちゃくちゃ憔悴した顔をしている、とにこにこしながら席に着く。


場内は案の定満席で、私の席は前から4列目、通路から2番目という場所だった。少し小さめのシアター内は早朝の緊張感も緩んだのか徐々に賑やかになり、うしろや横から漏れる声を聞いているとどうやら友人連れのお客さんもかなりの人数いるらしい。この早朝に一緒に映画を観てくれる友人がいるなんて素晴らしいことだと思う。連れのいない私はもちろん黙って開演を待っていたが、私の隣、いちばん通路側の席に座っていたのも、ひとりでやってきたらしい若い男性だった。


映画はやはり素晴らしかった。このころになると、前回までは中心となるキャラクターの動きしか観ていなかったから、今回は別のキャラクターの動きを追おう、というような「きょうの目標」が頭のなかに自然とできている。推しの登場以降もより冷静に作品を観察できるようになった感覚があり、例えばキャストさんの息継ぎの音だとか、環境音として流れているセミの声だとか、細かな点に気を向ける余裕が出てきたのだ。もちろん推しが死ぬシーンになると胸が物理的に痛み出すのだが、同時に「これも運命(さだめ)だったのだ……」というような感覚も湧き上がってくる。悟りと呼ばれる境地の一端を垣間見た気がした。


いちばん記憶に残っているのは、先述した隣の男性である。途中から、なんだか落ち着きがないな、と気になってはいたのだが(迷惑と思うほどでもないが、少し左右に揺れているような気配があった)、さあこれから推しがその生を終える、という作中屈指の名シーン、まさにそのとき、その男性は突然風のような勢いで席を立ち、目にも止まらぬスピードでシアターを飛び出していったのである。え、いまァ⁉と思った。いままさに推しが死のうとしているというのに観なくていいのかお兄さん。推しの死を観ずしてなにを観るというんだお兄さん(個人の感想であるし、念の為付け加えておくと推しは主人公ではない)。思いもよらない出来事に呆然としてしまい、一周まわってその日がいちばん冷静に推しの死と向き合えた気がする。


男性は、推しがいつものように晴れやかにその人生を終え、主人公たちが未来へ歩み始めようというそのころ、落ち着いた様子で席へ戻ってきた。きっと差し迫った事情があったに違いない。正直気持ちはかなりわかった。というのもじつは私自身が、開演からずっと謎の腹痛に苦しんでいたためである。たぶん早起きしたのがいけなかった。最近ストレスがすぐ胃腸にくるのだ。もちろん推しの顔を目にした瞬間緩和したが(酒類が「百薬の長」という称号を推しへ譲り渡すのも時間の問題だろう)、場内が明るくなった途端に痛みがぶり返してきたのである。


腹痛は帰宅したのちも完治せず、それからなんだかんだ1週間以上続くこととなる。やはり早起きは体によくない。推しのために最善を尽くすのはもちろんだが、今後はあまり無理をしないようにしようと心に決めた。



ちなみに数日後バイト先へ出勤したら、インターネットを観ていた社員さんが「某呪術アニメの第2期製作が決まったらしいですよ」とネットニュースを見せてくれた。思わず「ほんとですかァ!?」と叫んだ。


→後編につづく


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桐崎鶉
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