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本の内容を覚えていたいならば、本に本を重ねて

なんとなく本の読み方について書きたくいと心がムズムズしているので、ここに文字としておこそうと思う。

これは本から情報をくみ取るという側面が強いので、楽しんでよむとは少々違うかもしれないということを先に書いておこう。

さて、本を折角読んだのならば、出来れば内容は忘れずに居たいという人は少なくはないだろう。その本の内容を自由に引き出せるような脳が欲しいなぁ、とある魔術の禁書目録の、某少女みたいな脳容量が欲しいなぁとついつい思ってしまうが、まぁそんなことは置いておいて・・・。

本の内容を、なるべく覚えていたいというか、忘れずにいるためには、「本に本を重ねる」のが、一つの手かなと感じている。とはいうものの、特段難しいとかではない。大~丈夫。全集中しなくても使えるから。

「本に本を重ねる」。つまりこれが意味するところは、ある本を読み終わって、また別の本を読む時に、その直前に読んだ本の内容か、或いはそれ以前の本の内容を思い出すということだ。まぁ、簡潔に申し上げれば、「思いだす」だけ。

例えば、だ。

今ちょうど読んでいる本で、「本に本を重ね」てみよう。使用する本は、「【現代思想の現代】レヴィナス 壊れものとしての人間」で。

「ジョルジュ・バタイユ」を扱った本や、「ジャン・ピエール・デュピュイ」の訳本を読んでいるうちに、この「【現代思想の現代】レヴィナス 壊れものとしての人間」にたどり着いて、「本に本を重ねる」ことのいい例が示せそうなので、その意味でのこの本から引用させていただく。

この本の、208pにはとある文章がある。

これに対し思い出を超えた歴史における未来は、予言では捉えられない。共同体を破壊し尽くす災厄という歴史意識のプログラムを超えた破局において、予言(歴史意識)は無効になる。〔中略〕このような破局は時間軸に未来にあるのではなく、共同体とは異なる水準の歴史として常に現在において切迫している(村上靖彦、2012、208-209)

とりあえず、内容は理解しなくてもいい。

「本に本を重ねる」。ある本を読んでいる時に、また別の本の内容を想起すること。

この引用文を例にすると、この文章を読んだ時に、ジョルジュ・バタイユの「至高の感性」という言葉だったり、「理性という狂気 : G・バタイユから現代世界の倫理へ」という本のキーコンセプトである「理性という狂気」を思い出したり。

或いは、「ジャン・ピエール・デュピュイ」の「ツナミの小形而上学」という本の内容を、「共同体とは異なる水準の歴史」(村上靖彦、2012、209)から想起する。例えば、「形而上学的傲り」(ジャン・ピエール・デュピュイ、2011、29)という文言だったり、「未来の現実性」(西谷修、2011、150)、「覚醒した破局論」(ジャン・ピエール・デュピュイ、2011、19)という節を思い出してみたり・・・。

間違っているかどうかは、とりあずは、関係ない。ただ、これってもしかしてあの本のこんな概念や考えと似ていたり、或いは違いがあったり、一致しているのではないかということを思ってみる、つなげてみることが、「本に本を重ねる」ことであり、重要なことかもと思う所。

いわば、依然読んだ本の知識という薄いフィルム(或いは色眼鏡)を、今読んでいる本にハラリとかぶせて、そうして本を読み進めていくって感じ。受け止めてくれる土台、新しいものがそのまま流れていくときもあるけれど、既知の知識と比較して、分かることも結構ある。

それに本は、完全にオリジナルなものは存在しない。必ず、何かしらの意見に依拠していて、その意見に見覚えがあるということも結構あったり、無かったり・・・。

本は、繋がっている。見えない糸か、なんかで。

その繋がりを、本と本との重なりを通して、垣間見ることができると、結構たのしいものですよ。



今日も大学生は惟っている。


引用・参考文献

石川学.2020.理性という狂気 : G・バタイユから現代世界の倫理へ.慶應義塾大学教養研究センター

村上靖彦.2012.【現代思想の現代】レヴィナス 壊れものとしての人間.河出ブックス

ジャン‐ピエール・デュピュイ.2011.ツナミの小形而上学.(嶋崎正樹訳).岩波書店




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