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塾講師は正当化出来るのか?と提言してる時点で、塾講師は正当化出来ないと惟ってる私。

「学習塾」とは、どういう場所だろうか? 生徒の学習能力を高める場所?学習への意欲を高める場所?生徒の学習を一生涯で使えるレベルで改善する場所?

いや全部違う気がする。

「学習塾」は、生徒を均質化することに貢献している場所。

これが一番しっくりくる。

こう云っておきながら、不肖この私めは、塾の講師じみたバイトをしている。

コロナで碌に対面での作業が出来なくなった今、「塾講師」の真に意義について思案を巡らせてみようと思ったのだ。

塾に来るのは、学校の成績を上げたいと願っている、偏差値を上げたいと願っている、どこか別の学校に入りたいと願っている人がほとんどだろうか。

でも、学習だったり勉強だったり、自分の考える力を伸ばそうと云う人はそうそういないんじゃなかろうか。

何か目標があるのは意味のあることかもしれないが、その目標を達成するだけの使い捨てとしての「塾」に、本当に意味があるのだろか。

そして、とりあえずいい感じのところに入ればいい、成績が高ければいい、それを実現させるためのサービスを提供する「塾」に、究極的な存在意義があるのだろうか?

まぁ。こんな文章を書いている時点で、もはやその存在意義とやらがあるとは思えないけれども。

生徒を均質化し、創造力を奪い、点取りマシーンへと変化させ、支配しやすく使い勝手のよい労働力とするために役立っている「学校」と、「塾」は、云ってしまえば共謀関係にあるとさえ思ってしまう。


おそらくその証拠に、「塾」は合格実績を誇ったりしているものの、どのように学習への姿勢が変化し、考え方や見方が変わったかについて、ほとんど紹介していない。

教育の場でもある学校でも、多分のこのありさまだろう。


「学校」は、滞りなく生徒にある程度の知識を植え付け、従うことを美徳とさせ、「塾」は、学校で点数を取ること、偏差値を高く保つことを、当分の目標とさせ、その当分の目標を、深く生徒に植え付ける。

「塾」のバイトは

生徒から、創造力や好奇心をはく奪し、学習意欲を低減させ、「学ぶこと」がなんら楽しくはない、粗雑で瑣末な行いであると生徒に勘違いさせてしまうことを助長する存在なのではないだろうか。


今、学校ではオンライン化が進んでいる。

「塾」もどうやらその方針らしく。

しかし、私はこのオンライン化というものが、気休めにしかならないと考えている。

一方的に知識を伝える日本特有の授業なら幾分か効率も良い。人数が多くてもある程度は対応できる。

では人数が少なければいいのか?と言われると、そうではないと思われる。

例えば、私がフランス語の授業をオンラインで受講していたとする。そして他の生徒も同じくフランス語を受けている。これなら、受講する内容には大きな差がないので、生徒側にも講師側にも大した苦労はない。

しかし例えば、異なる科目をオンラインで教えるとなった場合、どうだろう。つまり私がフランス語を受けているが、同時にその先生はドイツ語を担当しなければならないという事態の時、どうなるだろう。

(そんな状況があり得ないと思うかもしれないが、ゼロとは言い切れない)

自分がフランス語を教えてもらっている間は、ドイツ語の生徒は手持無沙汰。そしてその逆もしかり。それが授業内で幾度も繰り返されるのである。


生徒は、講師側の音声をミュートにすることが可能かもしれないが、もしミュートにしたとしても、自分ではない誰かに教えている画面が写っている。私だったら、なんだか違和感を感じる。

では顔を移さなければいいではないかとなるかもしれないが、音も聞こえない、顔も見えない、そんなら家でひとりで自習しているのと、何が大きく違うのか?

私はこの状況に改善策をもち出せないでいる。


学校ならまだしも(学校の悪い部分が、逆にオンラインでは障害を生み出さないでいる)、「塾」という人数が少ない、個々で学んでいる科目が異なる、学年も異なる、教えることばかりではいけない、のような条件が重なってくると、「オンライン化」が逆に問題でしかない。

家で大人しく、問題を解いている方が幾分かマシに思えるのは気のせいだろうか?


どちらにしろ、オンラインで授業をやろうが、そうでなかろうが、塾でオンラインを導入しようがしまいが、その心配の根本にあるのは、子どもへの心配もあるだろうが、

「〈みんな〉についていけなくなるのはではないか?」という同質性を強制する代物か、もしくは、「とりあえず良いところへ入れておけば」という即自的なものだろう。

ま、この国に長期的な希望が望めるほどに、期待なんてしているやつは、ほとんどいないと思うけれども。


オンライン化

やはりこれは気休めに過ぎない。これしか手がないのだろうが、最高の手ではない。民主主義のように、最善ではあるが、最悪の手段に過ぎないのではないだろうか・・・?


ところで、塾講師は正当化できるのかという問題だが、正当化できないといことをあまり認めたくはない。

それによって生活を営んでいる人たちを否定しようとは思わないし、それによって子供が勉強していないという不安から逃れたいという人を、口うるさくののしる気もない。


色々考えていると、やっぱりニーチェの積極的なニヒリズムが最強すぎる。




今日も大学生は惟っている。




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