自分が「有る」ってことも、世界が存在するってことも、自分が生きてるってことも。
本を読んでいる、風に吹かれている、湿布を貼っている、素麺を茹でている
全ての私が、そこに「いる」。
だがどうにも怪しくなってきたぞ。いやほんとに怪しい。それらは全て私が「ある」こと、「存在」することを意味しているのかっての。
いやそもそも、私が「生きている」ということすらも。
こう疑問に思うようになったのも、中島義道さんのとある文章を見たからでって。
言いかえれば、言語の習得がS₁を「殺す」のである。(中島義道、2016、191)
言語を習得する有機体S₁は、その時点で既に自らを「殺す」と。
なぜか、なんとなく腑に落ちるように感じた。
となると私は、3、4歳の時点で、もしくは9、10歳の時点で既に自分を「殺し」たということになるのだろうか。
もう私は「殺さ」れている。言葉によって。その時に、私自身が「死ぬもの」であると意識したことによって、私は合法、いや法を超える殺人を自らに行わせたのだろう。
私は既に「殺さ」れている。なぜなら、私が「死ぬ」ということと、私が「死ぬ」ことによって、「無」になることを理解してしまったからだ。
どこまでも、自分だけの世界、言語製作物という名の超越論的仮象が広がっていたあの時は、まさしく、おそらく真の意味で、「死ん」ではいなかった気がする。
私は、きっとある遠い星霜が立ちはだかる昔に、無限の生を感じていたあのアダムとイブみたいな人間だったのだと、思う。
言語は、伊藤計劃の「虐殺器官」ではないが、ある意味一種の「虐殺器官」ではないかと感じた。人間を殺す器官。いや、人間が「殺さ」れることによって、彼らが死に、無に帰すことを教える器官と言った方がいいかもしれない。
人間を殺すことによって、殺されることを知らしめる、まさにこの意味において、言語は「虐殺器官」のように見える。
人間の「死」に対して、また中島義道さんはこのように書いている。
客観世界からもともと排除されているという意味で不在なのであり、その世界を承認することをもって、その世界において「私」はすでに消滅しているのである。(中島義道、2016、197)
中島義道さんの考えに屈従すれば、「私」は「殺さ」れてしまっているだけではなく、もう「不在」しているということになる。
私は生きているかもしれないが、しかし同時に客観的世界という仮象を認めることによって(その世界が存在しない空言であると確信することによって)、私は「消滅」するのであろう。
さて、私は「存在」しているのか。「過去ー現在ー未来」という時間概念の数直線上に、私は客観的存在として、自律自存する実在的な存在でありうるのか。
私は、もうすっかり、「存在している=生きている」「有=生きている」と考えに自信が持てなくなってしまった。なぜなら、そのような意見を支える根拠や論拠など、どうも見つかりそうにないからだ。
私は「有る」のか。
客観的世界は存在しているのか。
私は「生きている」のか。
これらへ答えは、「仮象という名の真の意味で、存在していない」ということになる。まぁ今のところは、Noだ。
死ぬべき存在として位置づけること。自分の「世界」が、間主観的な世界であり、決して客観的ではないということ。
自分が「有る」だって?
この世界が存在しているだって?
自分が殺されてはいないだって?
誰が一体そんなことを云ったのだろう。
それは我々人間が信じるべき、「当たり前」なのか? どうして人間の存在や世界や時間概念や、基底や生の在り方そのものをそのまま(仮象)で受け取ろうとする?
それが、とてつもない「認識論誤謬」であると、どうして疑わないのか。
「人間」という存在(?)自身の根底が、認識論誤謬に溢れていたら? 当たり前が単なるイメージを信じ込ませる精神安定装置だとしたら?
私は「有る」のか。
それとも「不在」と言う在り方で、「ある」んか? だとしたら、今この文章を紡いでいる私は、一体・・・誰だろう? 肩の痛みを感じている「コレ」は、なぜ「有る」ように見えるのだろう?
「コレ(有機体S₁」は、「私(hikki)」が「有る」ように振る舞っている(演技している)だけなのか。
当たり前だと思っていた(思っていたかった)「私」が、ボロボロと崩壊していく。残っているのは、「コレ」という名の、(おそらく)「不在」、ということだろうか・・・
私は、「私」という当たり前のような存在が正しいのか、まず疑問に思わざるを得ない。
ますます「私」「私らしさ」が分からなくなる今日この頃であります。
と
今日もコレは惟っている。
引用文献
中島義道.2016.時間と死 不在と無の間で.ぷねうま舎