この世には無限に月が存在していて、水は流れつづける
ちかごろ立て続けに、人間について、いろんなひとと話をしたり、しなかったりした。もしかして、わたしはいま、人間関係で悩んでいるのかな?それはどちらでもよいことだ。
わたしが大事だなと思うひとたちは、みんな月の住人なのかもしれない。
そうだったら、けっこう、すてきだよね。
◇ ◇ ◇
われわれはひとつの空間を共にしていて、その実まったくちがった世界にそれぞれ暮らしている。
だから往々にして、対立する場におかれたり、はたまた、ひとどころに留まってみえたりする。
そのなかで、苦手だなというひともいれば、気が合うなというひともいる。しょうがないことだね。
だれだれがいじわるだからだとかすぐれているからだというのは、けっこうわかりやすい考え方かもしれない。
だけどこれは、どうしても少しかなしい解釈に思えてしまう。
できれば、王様やわるものを決めなくてもいい方法を探したいよね。
王様にもわるものにも、いつのまにか、それぞれ彼ら自身の望まない役割がついてまわって、いつのまにか、つらくなってしまうものだから。
こういうふうに考えるのはどうだろう。
われわれは、ひとつの空間を共にしているようにみえて、実はそれぞれ、ちがった世界に暮らしている。
そのなかで愛憎が発生するのは、かりそめのひとつの空間のなかで、みんなが場所を食い合っているからだ。
◇ ◇ ◇
われわれはみんな、ものごとを捉えることで、世界を認識している。
そして、その捉え方は、みんなちがう。
だから、みんなちがった世界に暮らしているというわけだ。
やっかいなのは、現実的には、みんな同じ空間を共有しているようにみえること。家族や友達、あらゆるコミュニティがそうだ。そして、それぞれのものごとの捉え方は、そのひとつの空間から広がっていく、ということ。
つまり、みんな出発点が同じところから、年月をかけて、すこしずつ、だんだん離れていくのだ。
出発点が同じなのに、見聞きしたり真似した対象は同じなのに、だんだんみんなバラバラの方向へ離れていくように見えるから、人は他人に腹が立ったり、あこがれを抱いたりするのだとおもう。
◇ ◇ ◇
出発点が同じなのだから、そして、同じ空間に存在しているようにみえるのだから、そのままお行儀よく留まればいいだろう、というのが、仲良しの秘訣のひとつ。これは社会といっていいだろうね。
大昔にこの世に暮らしていた、アリストテレスというひとは、「政治的動物」ということばを作って、これを説明したらしい。彼は、なにも「行儀良くしろ!脳のシワをアイロンがけすべき!」ということを言っていたのではないようだ。むしろ、「みんながお行儀よく、ひとどころに留まれるにはどうしたらいいだろう?」という方法論をひたすら追求した人とされている。すごいよね。
さて、この方向でがんばっていくのは、けっこう骨の折れる仕事だ。
われわれは、ひとつの空間を共にするために、王様やわるものとして生きるのだから。
王様にむいているひとが王様になって、わるものにむいているひとがわるものになる。べつにどっちがよくて、どっちがわるい、というのはない。王様もわるものも、同じ空間を共にするための必要な要素だから。けっこう理想的にきこえますね。
そうなのだけど、王様はこうあるべきというルールがあるし、わるものはこういうことをすべきという道徳がある。
わたしはさきほど、ひとは少しずつ、ちがった世界へ離れていくものだ、と言いました。
そうなると、ルールや道徳の捉え方も、すこしずつ、みんなちがってくる。
「みんなのいう王様の条件って、あんまり納得いかない」とか「わるものがちゃんとわるいことをしていない」とか、ズレが生じてくるわけだ。
王様にむいているはずだったひとは、もはやむいていないということになるし、わるもののほうもしかり。
こうなるともう、喧嘩するしかない。「おまえのあたまはだめだ」とか、「おまえは話のわかるやつだ。一緒にあいつを土に埋めよう」とか、「アリストテレスは前時代的な考え方のばかなのでは?」とか、めちゃくちゃになる。
こんな状態では、みんなが同じ空間を共にするために、パワーでもって異物を排除する必要がある。
あなたのなかに、苦手なひと、気の合うひと、というカテゴリができあがる。愛と憎しみのなかで、われわれは無限に戦い続けることになるのです。
◇ ◇ ◇
人生って、社会って、そういうものです。それが「政治」なのよ。みんな辛いけど、「政治」がんばってるのよ。たしかにそうかもしれない。わたしも社会によりかかって生きている手前、そのルールを尊重しているし、なるべく従いたいと思って生きている。
だけど、そのために他のひとをきらいにはなりたくない。なぜなら、自分がいつかつらくなるから。死ぬまで逃げ切るか、敵を排除しつくすか、それが人生だなんて、あまりにかなしすぎる。
◇ ◇ ◇
じゃあどうしましょう。
われわれはひとつのかりそめの空間のなかで、場所を食い合っているんだと考えれば、すこし楽になるんじゃないかな。
苦手だなと思うひとが出てくれば、食い合わない場所へ流れればよい。
すてきだなと思うひとが出てくれば、ひととき同じ空間を共にできてありがとう、と思えばよい。
みんなちがう世界に生きていて、同じ空間にあるようにみえるだけと考えれば、出会いも別れも、すこしだけシンプルで、うつくしいものになる。
そうみえるだけなのだから、すべてはだれかのせいではない。
あまり場所にこだわらない、というのが大事だよね。
ひとは水みたいなものだと考えるのもおもしろい。われわれはただ、流れていくだけだ。どこかにぶつかっても、水は流れ続ける。意思でもってして、喧嘩をしなくても大丈夫なのだ。
今日お話してくれたわたしの友達は、箱と落下という表現で似たアイデアを説明してくれた。おもしろいよね。
◇ ◇ ◇
わたしは、この世には無限に"月"が重なって存在していると思っている。
ひとびとは誰もが、ひとつの月にひとりずつ、暮らしている。
月がぼやけて見える夜は、ほかの月について想いを馳せればよいし、パリッとした月夜には、アリストテレスたちの偉業を想えばよい。昼間には、月面に咲くバラに、お水をあげる。それだけで人生は大丈夫なのだ。少なくとも、わたしの月の世界では、そういうことになっている。
だれかの世界でも今日、人生が大丈夫であるといいね。