基準を疑わないことは論理性に反する。

正しさには基準がある。一般的に、論理的であることは正しいとされ、根拠や証明が求められることも多い。ではなぜ、論理的であることは正しいのか?正しさは分からない。そして、間違いであることを論理的に証明することは論理を肯定することになるため、直感以外で論理を否定することはできない。

別の側面から、単に論理に正義性を見出している可能性が考えられる。それは今昔の社会性を見ても分かる通り。普遍的な理想であるのだ。

論理性の正しさを信じることは普遍的な理想であるから、このように基準を疑うことが必要である。
一般に信じられている正しさの基準というのは、間違いが多い。尺度としてよく用いられる憲法や法律、日本における憲法とは立憲主義的意味を持つから、国民を拘束しない。憲法が拘束するのは国家である。そして、日本国憲法における正しさの基準は、いろいろあるが、ひとつに戦争の否定が挙げられる。次に法律、こちらは国民を拘束するものである。法律における正しさの基準は、ひとつに秩序維持。

一般の労働に対する姿勢および労働しない者への姿勢について、よく批判にとして取り上げられる憲法、労働の義務について。先に述べたように、日本国憲法は国家を拘束するものであり、国民を拘束するものではない。国民は労働の義務を負うことはないが、努力義務を負うことになる。そして、労働が正しいという根拠は存在しない。
一般の犯罪者に対する姿勢、悪の基準について、よく批判に利用される法律について。秩序維持の観念から、法律は犯罪者を定義し、処罰する。最初から犯罪者が存在するわけではないし、悪人が存在するわけでもない。そして、秩序維持が正しいという根拠も存在しない。

ここまでで、正しさはない。

しかし、普遍的な理想は存在する。普遍的な理想こそ、人間にとって必要な基準である。
普遍的な理想では、労働は正しいか?
普遍的な理想では、秩序維持は正しいか?
労働は偽、秩序維持は真と考える。

そして、普遍的な理想には、全人類の幸福という項目が存在していいはずである。誰一人の犠牲を許さず、問答無用で全人類が幸福であること。これに反することは、理想ではない。

理想の上で、論理を信じることは、論理を疑うことである。論理性を理想とするならば、基準を疑わなければならない。そうじゃないと、論理性に、理想に反する。


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