美しき世界

平穏な日々

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最近の記事

定時で帰ります。

成果を求めるやつは自ずと残業するだろうに。定時で帰るやつは仕事の成果よりも生活を優先しているだけだ。それを経営者がうんざりする言葉として取り上げ、「今が大事なときだって分からないのか」とか、経営者の傲慢だろう。 残業しろと言えない世の中だから言わない、のではなく、論理に間違いがあることに気づきたまえ。 そもそも、人によって求めているものが異なるのだよ? 「私は仕事の成果を求めている。君も当然そうなのだから、生活より仕事を優先しなさい」これがまかり通るわけがないのだ。 まあ、

    • 浮世は地獄であること

      地獄というのはなんだ、と考えたとき、やはり理想が完遂されない世のことを言うと思うのである。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』に地獄の描写があるが、犍陀多は自らが助かることばかりを考え、人を蹴落として平気でいる。そうして勝ち上がった者、負けて落ちてしまった者と分かれる。最終的には、犍陀多は、糸を切られ落ちるのであるが⋯⋯。これは現世でも、当然に同等ことが行われている。富める者と貧しい者。古狸性を備えた人間が、優しい人を騙し、犠牲にし、幸福を得ようとする。太宰治の『燈籠』のさき子は盗みを働

      • 世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。

        世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない、というのは、個人の幸福は全体の幸福に依存するというより、正確には、全人類の幸福が常に達せられないとき、つまり誰かが不幸になるときが存在することは、個人の常の幸福が保障されないということだから、全にして個というようなものだと考える。 しかし、この形容では完全に掴み切れた気がしない。一瞬だが、全てと私、個人が一体化したように感ぜられたのだが、すぐ霧散してしまった。一応以下、ChatGPTに投げてみたので置いておく。 Cha

        • 理想の否定と、世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない、とは。

          仲間というものが少ない気がする。SNSではよく誰かが争っている。その争いが争いを呼び、苛烈化する。 いわゆる、厳密な意味での個人主義とは違うが、己の利益の最大化を絶対視し、他を切り捨てるような。人に親切にするような善なる無意識の精神性が、失われている気がする。 それでいて、人と関わらざるを得ないから、争いが絶えないのだ。 身近な意味での共生、互いを尊重し合う精神性がないのならば、人と関わることが間違い。孤立し続けるだけの気概がなければ、正しい倫理と自省をし、共生という普遍的な

          退廃美を信じる精神性について

          頽廃というのは良いものじゃない。決して、憧れるようなものじゃない。頽廃というのは、情熱のない者が縋る、唯一の美なのだ。 浮世には善人と悪人がいる。善人というのは、普遍的な理想の頂点に立つ、純粋なる善、無意識の善のことだ。悪人というのは、それ以外。悪人も千差万別。悪の自覚がある悪人。自覚のない悪人。こいつらの差は、無意識と意識の中に、ほんとうに善を焦がれているか否かだ。自覚のないやつはだめだ。ほんとうの阿呆の快楽児。理想の反逆者。われわれみたいな悪人は、せめて悪の自覚をするべき

          退廃美を信じる精神性について

          幸せを掴みにゆくと言うけれど

          未来への、純粋な希望が抱けないことへの、後悔と言うのだろうか。 全ての子どもが、希望に満ちた未来を思いはせるわけじゃないだろうけど。そういうのを、無邪気に信じられる純粋性を、持ち合わせていたら、精神的に少し、よくなると思うのだ。 思い返せば、未来のことなんて、あまり想像しなかった。目の前にあることだけを見つめていて、希望を抱くこともなかった気がする。だから、これは羨望なのだ。 あの時、将来はなにをしたいとか、十年後の自分が、どんな生活をしているだとか、想像していれば。結果が変

          幸せを掴みにゆくと言うけれど

          私たちはなぜ生まれたのか

          社会は、ほとんど常に無能というやつに厳しい。仕事ができないやつ、会話が不得意なやつ、努力しないやつ……。 そういうやつを、怠惰な落第生と定義し、蔑んだり、不遇な扱いをしたりする。 と、仮定したとき、人間の生まれた目的はきっと、社会に貢献するため、となる。 これは正しいか? 私たちは労働するために生きてるんじゃない。 人間目線、私たちの生まれた意味を考えると、幸福であるため、と定義できる。社会貢献を意義に感じることも有能の定義に含め、それ以外を無能とするならば、社会貢献をす

          私たちはなぜ生まれたのか

          基準を疑わないことは論理性に反する。

          正しさには基準がある。一般的に、論理的であることは正しいとされ、根拠や証明が求められることも多い。ではなぜ、論理的であることは正しいのか?正しさは分からない。そして、間違いであることを論理的に証明することは論理を肯定することになるため、直感以外で論理を否定することはできない。 別の側面から、単に論理に正義性を見出している可能性が考えられる。それは今昔の社会性を見ても分かる通り。普遍的な理想であるのだ。 論理性の正しさを信じることは普遍的な理想であるから、このように基準を疑

          基準を疑わないことは論理性に反する。

          感情と論理

          人間や他の生物であっても、感情を持つものと共生したいという理想があるかぎり、感情も論理である。別のものであると考えることが、間違っているのである。 もし、感情は論理ではない、または感情は論理だが論理とは別ものと考えるならば、それは共生を否定することになる。 解説 感情と論理の一体性について 感情は、しばしば理性的・論理的な思考と対比されることが多いですが、この主張では、感情も「共生を目指す」という論理的な理想に含まれるものだとされています。 もし感情が「論理とは別のも

          論理性と正義性

          ロジックハラスメントというものがある。 一般的に、正論は絶対の権力を持っていて、それに逆らうことができない。 ただ、どうやら一般は、ほんとうの正論を使わないし、知らないらしい。 正論に対して、「ロジックハラスメントだ」、と言い訳をしてみる。すると、一般は、「事実を述べただけだ。これは正論で、君に逆らう術はないのだ」と言う。 では、この正論を、武器に使ったとしたら。正論でもって、相手を傷つける行いは、正しいと言えるのか。 正義性というものがある。我々は物質的に異なる部分はあ

          論理性と正義性

          論理的に論理を否定する。直感。

          論理性を否定するにあたって、論理を使わざるを得ないことから論理性は真理だと考えるが、例えば、「純粋にそう思う」というような、直観から論理性を否定できる可能性はあるかもしれない。 chatgpt 「論理性を否定する」という考え方には、興味深いパラドックスが含まれています。まず、論理性を否定するためには、否定の主張自体が何らかの論理的な構造を持たなければなりません。つまり、「論理的に論理を否定する」ことが必要になり、これが自己矛盾を生むため、論理性が真理であるとする立場が強く

          論理的に論理を否定する。直感。

          絶対の善性を信じること

          すべての物事は賛否両論だ。当然なのだ。 人間は同じシステムのように見えても、性質や性質によって刻まれる歴史、歴史によって成長すること、物質的にも、ちょっとずつ違うのだから。 理解することは、必要なことと思う一方で、純粋は大事だ。 人は理想を持つ。大きな理想、行動一つ一つの小さな理想。理想=物語性、と捉えたとき、自分の人生をメタに認識すること、例えば「なぜ自分は生きているのか」というような疑問や、「現実性とはなんだろう」と考えることで、自分の人生を物語の読者視点で見ることは

          絶対の善性を信じること

          善性と悪性、人のあるところ

          人には善性が住んでいる。現れるか否かは、ときどき、人によるところではある。だから、世界が善に溢れているなんて、思わない。分かりやすく、善があって、悪があって、境界で隔てられるような場所があるなんて、思わない。 私は、ある人が善ばかりということを疑っている。もっと混沌だ。 もちろん、善ばかりという空間は存在していることも信じているけれど、そういうはっきりした空間は、悪というものも浮き彫りにしてしまうのだ。 ほんとうに、人が善ならば、悪を、悪というふうに捉えたまま、置いてけぼり

          善性と悪性、人のあるところ

          人の生きる理由は幸福であるため、ではない?

          行動の全てが幸福に続いていることから、生きる理由を幸福であるため、と定義したが、もし、行動によって生きる理由を達せられなかったら? 神が存在して、人をつくった理由は分からない、というのは含めずに、人には、人が生きる理由を観測できなかったら? 人の持つ本能、人に限らず、生物が普遍的に持つ本能。生存の欲求が、絶対と仮定すると、自害する人間もいるわけだから、人の生きる理由は、生きるためではない、死ぬことによっても、達せられるものなのだ。 行動の全てが幸福に続く、これはきっと正しい

          人の生きる理由は幸福であるため、ではない?

          いじめと悪意

          中学生三年生の子がいじめをした。グループになって、同じクラスの子一人を標的にして、転校にまで追い詰めてしまった。周囲のクラスの子は、グループが怖くって、一人を救うことができなかった。 学校は、グループの中心人物と話し合った。どうやら、悪の自覚はないらしかった。 話し合いを続けるうち、彼女は高校受験に対して、また彼女の親に対して、不満を抱いていることが分かった。 「みんながみんな、頑張らないといけない理由はなに?」 一見、関係ないように思えることだった。ただ、「みんながみんな、

          いじめと悪意

          人間の時間から開放されること

          人の思い悩む理由は、自分にある寿命が短いからだ。永遠の命があるならば、重大な決断をいくらでも先延ばしにできて、たとえ今、幸福を叶えられずとも、いつかはできるだろうという余裕が生まれる。 人はおおよそ百年しか生きられない。限られた人しか、たった百年で、自らの理想を達成することはできない。ほんとうの幸福への希望がないのだ。 では、今際の際に生きる人はどうだろう。 私が思うに、自分の寿命を自覚した人は、人の時間の感覚から外れる。百年しか生きられない、と思う時間の感覚から、逸脱でき

          人間の時間から開放されること