病気そのものがある意味での「癒し手」である
10年前くらいに、社会学者・見田宗介さんの社会人ゼミに参加していた。
その時に自分が発表した時のレジュメが出てきた。
タイトルは、「wounded healer(傷ついたヒーラー)と、世界中の悩み苦しみを吸い込むチベットの瞑想のデモンストレーション」とある。
小題を見てみると、
「トンレン瞑想というチベットの瞑想」「つながっているという感覚の回復」「自己変革と社会変革はつながるのか」などとある。
この中に、自分で
「嗜癖は、ワンネスやユニティといった変性意識を志向した態度じゃないか、とか、ワンネスのような変性意識は、自分がただ存在しているだけでこの世界から祝福されている感覚でもあるが、同時に他者や世界の苦悩や痛みをも引き受ける体験である」とか書いていて、われながら興味深い。
ウィリアム・ブレイクの詩を引用したり、傷ついたヒーラーという原型について触れたりもしている。
神話で描かれているケイローンは、治らないことで永遠にクライアントの痛みをわかろうとするヒーラーだ、と。
真の癒し手は傷を負っている。
また、病気そのものがある意味での「癒し手」であり、だから神々の次元でないと治せないものもある。
AA(アルコール依存の人達の自助グループ)の人達はだからこそ、神にサレンダー(自分をあけわたす)と言うのだ。
アルコールによる変性意識はつながりの感覚をもたらしてくれるものだが、AAはアルコールの代わりに場や神とのつながりを思いだすグループである。
AAは嗜癖というものを媒介にして、みんなで抱えられ、みんなで抱える場であり、これはシャーマニズムの世界観と近い。
AAのようなこういうグループの中に、真の癒し手がいっぱいいる。
……
当時はこんなことを考えていて、こんなことを人前で話していたのか…。
我ながら興味深い。
最後に参加者や見田宗介さんにまで、トンレン瞑想やらせたんだっけ。
当時考えていたことを文章にしてみると面白いかもしれない。
付記
AAのグループで最初にみんなが言う言葉。
この言葉が好きだ。
私もこのフレーズを毎日唱えていた時期がある。
私にこの言葉を教えてくれたのは、
私と共著で本を書いた精神科医(私の主治医でもあった)斎藤学氏だった。
「神様、私にお与えください。
変えられないものを受け入れる落ち着きを。
変えられるものを変える勇気を。
そして、この二つを見分けるかしこさを。」