コンテンポラリーアートとしてのサーカス第二章 Nouveau Cirque(ヌーヴォー・シルク)とは
第一章も併せてお読み頂ければ幸いです。
フランス 文化政策としてサーカスの再興へ
70年代、フランスのサーカスは大きな危機に見舞われ、フランス政府から援助の手を差し伸べられました。当初の目的は、何か新しいものを作成することではなく、その逆でした。何世紀にも渡る長い伝統を、絶滅から救うことでした。
1978年、管轄を文化省に移されたサーカスは、ついに芸術として受け入れられ、最も重要なことは、サーカスのアーティストたちは他の芸術分野のアーティストたちと同じ権利を取得し、断続的なスペクタクルのステータスの資格を得ました。このステータスにより、アーティストはショーの準備の為に、収入を得る前に金銭的助成金を受け取ることが出来ました。この改革は、生計を立てる為に、同じ古いプログラムを繰り返すのでは無く、アーティストに新しいスペクタクルの開発に取り組む機会を与えたので、芸術の一形態としてのサーカスの進歩にとって最も重要でした。
そして、フランスでは若いサーカスのアーティストたちがサーカスを刷新しようとしていました。もはやショーはテントの下や円環状のリングの周りで行われるとは限らない。これがヌーヴォー・シルク運動の始まりです。
ヌーヴォー・シルクの主な革新は、演劇、ダンス、大道芸、映像、人形...といった他の芸術分野を隔たり無く取り入れてショーに統合し、統一されたコンテンツ全体を創作する事でした。これが〝Nouveau Cirque〟と呼ばれる新しい芸術分野の誕生となります。
これまでの伝統的なサーカスにとって重要な三つの要素、道化師、アクロバット、動物の曲芸のサーカスは無くなりました。
現在、ヌーヴォー・シルクは、アーティストたちのプレゼンテーションの大部分が示しているように、コンテンツ全体にテーマを得ました。
一見すると、それぞれのアーティストの表現があまりにも豊富なので、ヌーヴォー・シルクを定義するのは難しいように思えます。
しかし、このように体系的に成り立ちを見ると、ヌーヴォー・シルクと呼ばれているものは、いわゆる伝統的なサーカスからの脱却に始まります。
革新の要素をまとめると
1. 演劇、ダンス、映像といった他の芸術分野の統合
2. Zingaroなどの伝統的なサーカスとリンクした、新しい美学として馬にスポットを当てた新しい挑戦は別として、虐待に繋がりかねない動物の曲芸は無くなりました。
3. 円形の伝統的な空間の使い方や、オリジナルの新しいテントスタイルなどの建築空間への実験的アプローチ。
4. 伝統的な劇場のように空間を2つに分けることで、セット上のアーティストと観客との間に正面からの関係を作り出す。ときには、二面性の関係になることもある劇場での試み。
今では多くのカンパニーが、劇場公演を中心に行うようになりました。
5. 伝統的なサーカス劇の放棄。伝統的なサーカスの構造は非連続的な継承で、2つの連続した演技の間に論理的な繋がりはありませんでした。ヌーヴォー・シルクの試みは、論理的な形態を構成し、コンテンツ全体を形成します。
6. 詩的なもの、不条理なもの、皮肉なもの、挑発的なもの、キッチュなもの、ユーモラスなもの、といった新しい美学の抽出です。
不条理のサーカス。それは、絶対的な恩義、アクロバティックな腕前の無益さを利用します。
社会的な抗議、挑発の壮大な形...と道徳的な啓蒙の美学。
新しい美学と実験的な試み。
ヌーヴォー・シルクは、古いものの縛りを破って、もはやそれだけではない独自性の高い創作作品を生み出しています。
サーカスの本質がリング形態にあるとすれば、共同体やその理想である平等主義社会を表現する事は、もはや空間の形態ではなく、パフォーマンスの形態と内容の間の妥当性にあると言えるでしょう。
政府機関の継続的な支援と、現場での教育の高い質の成果とで、今日ヌーヴォー・シルクは、大きなステージで行われる主要な芸術形式に進歩を遂げる事となりました。
フランス 国立サーカス学校の誕生
これは、アーティスト Pierre Étaix による1977年に印刷された、フランスの国立サーカス学校の宣伝ポスターです。
サーカスの発展における最も重要な側面の1つは、専門のサーカス学校の開設でした。
1974年にフランスで最初のサーカス学校 ÉCOLE NATIONALE DU CIRQUE
が、伝説の道化師 Annie Fratellini と Pierre Étaix によってパリに設立されました。
これまで サーカスの担い手の育成は、主人と弟子、本質的には家族との関係から生まれてきました。それは伝統的なサーカスのスタイルでした。
サーカスの家族に生まれていないにもかかわらず、ジャグリングや道化師、或いは空飛ぶ空中ブランコを好む人にとっては、学校が登場するまで、サーカスでのキャリアへの道は閉ざされていました。
サーカス学校は、芸術家、教師、体操選手、教育者の主導により、サーカスの世界を出来るだけ多くの人々に開放し、その結果、サーカスの外観を変える事になりました。
ÉCOLE NATIONALE DU CIRQUE avec EtaixFratellini
1971年にアニーとピエールがツアーをしていた時、 サーカスにフランス人アーティストが少なくなっていることに気づきました。 ツアーが終了すると、当時の文化省の大臣 Jacques Duhamel (ジャック・デュアメル ’71〜73年)との協議を重ね、サーカスの復興には学校の設立が急務であることに言及します。
歳月を経て、フランス初のサーカス学校〝École nationale du cirque 〟は、1974年にパリ14区 20 Avenue Marc-Sangnier の「Maison pour les Jeunes」に開校しました。
1975年10月、大きいサーカステントが設置され、学校のプロ・パフォーマンス部門である NOUVEAU CIRQUE DE PARIS を創設し、様々な背景のアーティストを集め、定期的に公演を行なっていきました。
この新しい機関は、サーカスの多様性と革新の点で、フランスをヌーヴォー・シルク最前線の国に変革する中核となりました。
何年にもわたっての努力と熱意は、トレーニングはより専門的になり、芸術性を増していきました。
1977年、学校は porte de la Villette に移転し、Seine-Saint-Denis の新校舎が完成するまでの間、この場所に留まります。
2003年に、現在の l’Académie Fratellini が設立されました。
アニー・フラテリーニ(Annie Fratellini 1932年11月14日〜1997年7月1日)は、フランスのサーカス・アーティスト、歌手、映画女優、道化師でした。
彼女は1932年11月14日に旅興行で訪れていたフランスのアルジェで、ヨーロッパの伝説的なサーカス一家であるフラテリーニ家の子孫として生まれました。
父親は道化師で曲芸師。母親は、1906年から1930年まで活動していたパリの Avenue de la Motte-Picquet にある巨大サーカス〝シルク・ドゥ・パリ〟のディレクターの娘で優れたミュージシャンでした。
彼女は13歳の時に、パリの有名な Cirque Medrano でサーカスデビューしましたが、18歳のときに結局サーカスから逃げ出し、小さなディクシーランド・ジャズバンドを結成し、歌手として新たなキャリアを始めました。
映画女優としても活躍し、1954年、映画監督の Pierre Granier-Deferre と結婚し、一人娘バレリーを授かります。後、離婚。
1969年に、道化師への情熱を持っていた Pierre Étaix の 映画 Le Grand Amour に出演しました。2人は恋に落ち、同年結婚します。コメディアンであり、映画監督 Jacques Tati のアシスタントであったピエール・エテ(1928年〜2016年)は、サーカスと道化師に情熱を持っていました。
1975年、ピエールとアニーは、パリ(およびヨーロッパ)で最初の2つのプロ・サーカス・スクールの1つである〝エコール・ナショナル・ドュ・シルク〟を開校し、学校のプロ・パフォーマンス部門であるヌーボー・シルク・ドゥ・パリを創設し定期公演を行なっていきました。
ピエールとアニーは1987年に離婚し、アニー・フラテリーニは学校とサーカスを経営し続け、現在フランス国立の2つの主要なサーカス学校の1つであるアカデミー・フラテリーニとなっていきます。
アニー・フラテリーニは、1997年7月1日癌で亡くなりました。65歳でした。パリの Cimetière de Montmartre に埋葬されました。
第三章 Nouveau Cirque を取り巻くフランスの文化価値 へ続く