”私”の読み解き
今の社会の正体のなさって
一つには”私”の読み解きの掘り下げ方のまずさがあると思う・・・
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こないだから「私」ってなんだろうと探っているのだけれど
それは昔、若い頃考えていたような、メンタル的なところではなくて
動きや、中心のあるなし、と言えばいいのか
ちょっとうまく言葉にできないけれど
ちょっともしかしたら何か近づいてるかもしれない。
そもそも、そう、昔は
「私」とは感情であり、身体であり、思考だと思っていた。
触れられる存在に落とし込んでいけば自分になれると思っていた。
そこには「私」が「私」になって
もっと自分に自信が持てて、余裕がうまれることを期待してもいたんだと思う。
私が私になれば、コンプレックスを取り払ってくれるだろうと
不安神経症は解消していくだろうと、
そこに紛れもない欲望が作り上げた”私”の虚像を見上げていたような気がする。
そうすれば私は社会からも見える存在となり、
孤独を免れることができるのでは、と。
誰もが自分の”私”を
これ、と言って人に見せることはできないので
まして自分の”私”は自分ゆえに見えないので
本当のところ誰も”私”というものを見たことがない。
感情という色をつけ
身体という形を与え
思考という内容を生む
バランスに過ぎないけれども
バランスをとっている間は
何かに傾いてしまう。
例えば、
特に宝物が埋まっているようなすごい場所なんかじゃなく
小動物が見つけた心地よい木の虚のようなもので
それすらも、さらに追っていくと
中心も持たず消えていくような
消失点
それでいて、どこまでも境なくひろげてゆける。
人というのは寄りかかりあって生きていくものだ
という捉え方を知っているけれども、
決して寄りかかり得ないものが個で
それでは決して満たされないのだと
だからこそ支え合うのだと
もし、社会が気づくことができたなら
感情の浴びせあいでできたこの構造を
根底から変えていくことができるのではないか。
社会、というのは結局
人が吐き出したものの音楽だから
人が奏でる音でできている生き物だから