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これからの音楽教室を考えてみる

是非音楽教室の先生にも考えてもらいたいとおもいたって、書いています。もちろん、音楽教室の人ではない人にも読んでいただけたらうれしいです。


求む、同志。

ウチは街の小さな音楽教室で、働いている私も音楽大学も短大卒で、化粧とかは適当だし、すごいなにかの賞をもらったこともなく、猫も時間の途中で邪魔するし、犬は吠えるし、忘れ物は多いし、年賀状も書かない、あまりに音楽教室としての一般的なイメージから遠いので、じぶんでももっと音楽教室らしくならねば、と思うことも、以前はありました。でも、「ちゃんと音楽教室らしく」しようとしても、あまりに「らしくない」自分が露呈するばかりなのです。でも、自分が受け入れられないものが他の人に受け入れてもらえるはずもないだろうと、いつのころからか、もうありのままでいようと、そっちの方向へ努力することにして、音楽教室をやめて音楽室とよび、先生をやめて名前でよんでもらうことにしました。呼び名って、思っていた以上に額縁で自分もその額の中にいきてしまうものだったようで、教室と先生という呼び方を変えて、やっとスタート地点に立てたような気がしています。スタートは、自分と音楽との関わり、自分と他者との関わり、私を生きる事と、仕事、ことに芸術という「それを仕事とよんでいいのか」悩ましいところの仕事、でも、ちゃんと報酬を得るだけの意味を持つ仕事とは・・とか、そういったもののすべてのスタート地点です。「音楽教室」というフレームをもっている間は世間的にもまっとうに見られるし、普通に通えるとも思われるでしょう。でも、手放してみたのです。離れていく生徒がいることも覚悟でしたが、でも生徒さん、保護者さんはそれ以前もそれ以後も、なにも変わらなかった。みなさん、フレームではなくて、私、を見ていてくれていたのですね。

ありがたいことに、そんなうちの教室 utena music fieldは、生徒さんに恵まれ、時々失敗もしながらですが、生徒さんに愛され、許されながら日々を送る事ができるようになってきています。この頃は新規レッスン生をお断りをせざるを得ないことも多い状態になっていています。なぜこんな中途半端なままの自分で良いのだろう?でも、そんな場所だから、並んで歩める安心感があるのかもしれません。

それで、えらそうなことを言ってごめんなさいですが、思うのは、もしかしたら、世の音楽教室の枠での仕事をされている人たちの多くは、立派すぎて、学ぶ側の「音楽を学びたい、音楽と仲良くなりたい、子どもに音楽を好きになってほしい」と願っているその相手側の思いの手触りがよく分かっていないのではないかなと言うことです。

もちろん音楽教室に対して、いろんなニーズがあると思いますから、コンクールを目標にして頑張るなど、「教える側と教えられる側の思いの一致」があれば、問題はないと思います。でも、多くの人たちはもっと身近なところで音楽にじかに触れたいと思っているのに、そういう思いを汲みながらやっていこう、という教室が少ない、と感じるんですね。実は音楽教室の先生だって、相手に寄り添って教えたいと思っている人はたくさんおられるはずです。でも、思いがもし伝わっていかないとしたら、どこかですれ違っていて、目線があっていないから出会えていないのかもしれません。

いろんな音楽教室のあり方があってよいのだと思いうのですが、そのなかに、もっとうんと多くのところで、今の音楽教室とは別の場所が求められているのじゃないかと思うのです。そして、私はそういう場所が増えていって欲しいとも思っています。それは、音楽教室(music field)は、音楽そのものを豊かにしていく末梢神経として、音楽を伝えていくという、世の中にとって必要な役割を担っていると思ってもいるからなのです。

ちゃんとする、のちゃんと、を手放す

私は音楽を伝え始めて30年以上になるのですが、若い頃は、上に書いたようになんとか「ちゃんとしなければ」と思っていました。

でも、今から思えば、その「ちゃんと」ってちゃんと楽譜が読めるようにする、とか、ちゃんと生徒が長続きするように工夫するとか、ちゃんとピアノが弾けるようにしてあげる、とか、ちゃんとしたホームページを持つとか、

責任感ゆえ、なのですが、その「ちゃんと」は一体なのを見て思っていたのでしょうか。いや、もちろん、それらはどれも大事なことなんですよ。でも、そこに根っこがあるかどうか。それはつまり、一人ひとりの他者としての個人に向き合っているかどうか。30年やってつくづく思うのは、まあ、人というのはマニュアル通りに行かないもんです。

こんなうちの教室でも、昔の生徒さんが今も音楽を楽しんでいる、ときくと、本当に胸をなでおろすような気持ちになります。それは今もそうで、私は今も、揺れながらここにおります。

ただ、かろうじて、うちの音楽教室が続けていられるのは、多分、「ちゃんとやろうとした」ことではなくて、もっと私自身が無意識にやってきたことのほうではなかったのか、と思うのですね。

その根っこのうえに、日々のレッスンを工夫しながらやっていけばいい、ちゃんと、と身構えることで、ものすごく伝わりにくくなってしまっていたし、頑なになっていた、そんな気がします。信念みたいなものも、相手をかえって見えなくしてしまうばかりです。

教えられることと教えられないこと

そもそも、音楽というもの、教えられることと教えられない事があると思うのです。

そして、教えられることのほうは、「音楽」という海にのりだす船みたいなもので、音楽の領野というのは、深く広い。圧倒的に、その人が自ら目覚めていくもののほうが豊かなのだと思うのです。

私はずっと前に、7種類の芸術療法の講座を受けたことがありました。そのときに人が自分の感覚で世界を見出していくことがこんなに大事なことだったのか、と驚きを感じました。

音楽と人。そこへの畏敬が自分にあるかどうか。
理想とかではなくて、それを具体的にイメージすることができるか。個々のケースや場面において、です。コミュニケーションの中で、できないことの生々しさとつたえたいものの葛藤に向き合えるか。意外と、私はこれをやってきたのかもしれない。

それが可能となって初めて、できるだけその人が乗りやすい船の建造に付きあうことができはじめる、そうだったように思います。

音楽と社会に向き合っていく覚悟

こういっては申し訳ないけれども、幹や枝葉ばかりを茂らせている音楽教室が目に入ってきます。多くはそれでいい。
でも、これじゃないんじゃないか、と思って探している人もかなりの数あるだろう、と私は思っています。この小さな田舎でもそうなのだから、叶えられないでさまよっている人は多いはず。

ことに、このコロナ禍のなか、自分と向き合わざるを得ない時代になってきています。それは小さくてもいい、自分の音楽をきいてみたい、という思いが湧いてきている、ということなんじゃないかともおもうのです。

音楽教室の先生が、既成概念としての「音楽教室」を手放して、本気でそれに応えてみようと思ったなら、きっと恵まれた出会いがあると思います。きっと、それを待っている人は多い。そしてそうやって出会った人たちは先生をも育ててくれます。これから、互いの必要性が新しい職業を作っていくのです。

本当に私はもうこれ以上は生徒を持たないつもりです。まず自分の限界なのと、できれば、研究活動のほうに力を入れていきたいと思っています。でも、問い合わせが来たら胸が痛むと思います。どうか、必要としている人のところによい音楽教室(music field)が見つかりますように。と、思って、これを書こうと思い立ちました。

今だからこそ、考えられるし、考えておきたい。

求む、同志。


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音楽前夜(谷中みか)
愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!