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カエルが飛び込む音の背景に

小学校低学年のころ、教育実習に来ていた若い教師の卵さんが、

「古池や蛙飛び込む水の音」

という芭蕉の句を紹介したあとに、

「この句のよさは、子どもにはわからないとおもうけれどね。」

と一言。これを今も時々思い出してなんだろうなーと考えます。

私は過疎地の田舎に育っていて、友達の家も遠くにあって、会えない時も多く、一人山の中で過ごす時間がえんえんと続く子ども時代でした。

家のすぐ近くには、池があり、それを囲むよう樹木が生い茂っていて枝は池に覆いかぶさり、私はよく、その池の上にかかる枝でひとりで「平行棒ごっこ」をしていました。(ちなみに運動音痴だったので、のそのそと枝をまたいで、こころでは華麗にとびうつっているつもりでした。今から思うともしも落ちたら大惨事、冷や汗がでます。)その、日の入らない鬱蒼とした感じ、たまに差し込んでくる光の感じ。枝で受ける風。森のざわめき。水面が黒く光る感じ。いつもそこで見かけるカワセミの観察。枝にひっかっかっていつまでも景色のなかでぼーっとしているのが、最高のあそびだったのです。

その中で、カエルが不意にぽちゃんと音を立てて池に飛び込む。
と、思ったときにはもうカエルの姿はなく、同心円の波紋が揺れて消えていくだけ・・・・そんな光景も幾度となく見てきたものでした。

その前後の静寂や物寂しさみたいなものや、その音の実際より大きく聞こえるかんじとかも、子どもながらに感じていたと思います。

そう、少なくとも、この小学生、多分その先生よりもその映像だけは鮮明に思い描くことができたのでした。しかも、もしかしたら昨日みてきた、くらいのリアルタイムで。

先生は、多分「子どもだから、芭蕉が感じるような感性はまだそだっていないだろう。」と思ったのでしょう。

私自身が子どもといる時間が多いから、余計に私はこのことをよく思い出すんだと思いますが、子どもだからといって、大人の半分しか感覚からの情報が入ってこない、などということはない、ということなんです。

芭蕉は子どもにも分かる言葉をつかって、子どもにも共有できる句を書きました。それがすごくないですか。ぎゃくに。

先生の「子どもにはわからない」という言葉は皮肉にきこえました。私は、でも、その先生にその句を教えてもらったことで、あの、言葉にもならないというか、しようとさえ考えなかっただろう空間・時間の質感を言葉にできるんだという、なんというかな、ツールを一つ手に入れたような気がした、そういう出来事でした。

utena drawingでは、よく”情報”という言葉を使います。
感覚が拾う情報、音楽の要素の中にある情報。心の中の情報。

情報を芭蕉が比類ない言葉の重ね方で生け捕りにしたように、音楽を描くことで、生け捕りにする音楽や自分からの情報。

情報というのも生きもんだなあと思います。

追記

もうとうにその先生のとしも飛び越えてしまった私です。
芭蕉の句は年を経て、かわっただろうか?って考えてみました。
情景は何も変わらない。ただ、それを眺める私はやっぱり年をとっています。
そして、年を経る、という情報、内面からの情報はそう、あの頃にはわかりようがなかったことだったなと思いました。











愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!