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人と音楽のあいだを満たすものについて

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人たちのかけがえのないいとなみと連動する音楽のことを考えたい。 音楽学者ではないけれど、いえ、だからこそ見えてくる音楽があるはず。音のない音楽のことや、自然のなかの音楽のことなど…
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身体の深さ

身体にはみずうみのような深さがある。 音楽と関わっていると、そう感じる時があります。 身体が反応してできるという世界観の中で 見えている音楽は、どこかまだよそよそしい。 演奏に応じて、理解に応じて、練習に応じて 身体は深いところから 動きを導こうとする。 できないことが、できるようになったとき、 できなかった頃の身体はもういなくていいのだろうか? その軌跡が、身体の深度になっていくような気がするから 最初から問題なくできる、という身体とは違う道筋を辿ってそこに辿り着い

音楽と対話するドローイングの紹介です

音楽を描く(utena drawing)音は、 時間の中にあります。 耳を澄ませる、ということは、 時間に心を寄せる、ということでもあります。 音楽に耳を澄ませ、そのさまを描く。 そこには、どんな形であれ、 音楽と、”私”とのふれあいが あります。 描かれたものは、かけがえのない”私”の時間の経過でもあります。 utenadrawingは、音楽を描いてみる、というちょっと変わった方法です。 そしてそれを支える内容・理論の方はもっと風変わりなものかもしれません。

手加減、目分量、こんな感じ・・と音楽と

今日のお話 手加減とか目分量っていうのは ざっくり、っていう感じと、そっと、という感じがあいまって それが程よいランニング感になっていくとうまくいく気がします。 それは、昔よくやっていた編み物や縫い物も、 そして音楽も、同じかもしれない。 という話と、 ちょっと宣伝もしてます。 手芸の手加減、目分量 昔、まだ30代だった頃、縫い物や編み物が好きでした。 一枚のセーターを作る前に、作ろうと思っている毛糸で小さな四角いゲージというのを作ります。それで自分の手加減や、編み棒の

”私”の読み解き

人と音楽の間を満たすものについて 今の社会の正体のなさって 一つには”私”の読み解きの掘り下げ方のまずさがあると思う・・・ ーー こないだから「私」ってなんだろうと探っているのだけれど それは昔、若い頃考えていたような、メンタル的なところではなくて 動きや、中心のあるなし、と言えばいいのか ちょっとうまく言葉にできないけれど ちょっともしかしたら何か近づいてるかもしれない。 そもそも、そう、昔は 「私」とは感情であり、身体であり、思考だと思っていた。 触れられる存在に

音を造形していく力

ひとつの音の楽曲の中の役割が見えてきたら、 それが全体の中で、その意味がなせるように 音の粒、ひとつひとつ、音の流れやいろんなフェーズで 音を形作っていく、造形していく力がいる。 それは彫刻のように立体的で、時間経過の中を生きる。 統合していくのが”私”の作業だ。 ときにそれは、自分の感情も、過去の痛みも 何もかもそこへ投げ出して、練り込んで (だって自分が持っているツールはそれで、 使えないツールはないんだから。) 時間の中に、造形していく。 その作業に優劣なんかなく

【読んだ本】ゲーテの世界観

ゲーテの世界観/人の内と外は決して分断されてはいない・・ ”人の内と外は決して分断されてはいない。” 折に触れ立ち返り、何度も読み直す本の一つです。 哲学の世界では、イデア(物事の本質)と人の内面は切り離され、人の内面は閉ざされたもの、という認識が一般的でした。 ゲーテといえば、シューベルトをはじめ、ベートーヴェン・ヴェルナー・ブラームス・シューマン、メンデルスゾーン、ヴォルフ、リームなど、彼の詩を歌曲にした作曲家は枚挙にいとまがありません。その詩人としての、ゲーテ。

差異が意識を育てる

一つでわからないものが二つの差異によってみえてくる ふたつ、質の違うものがならんでいるとする。 ひとつ、ぽつんとあったもの それを、どう言い当てれば良いか、掴みどころがなかったものが ふたつあることで、その違いや落差から その二つを照らし合わせて 初めて、それが何か掴めるようになる。 ひとつがわかったとき、それは同時にもう一つがわかるということで そんなふうにして、世界は意識の中に開示されていく。 赤ちゃんは、生まれたばかりの時 まっさらで情報がまだすくないなか 快と不

見えているものと見えないものとの乖離

見えているものと見えていないものの 乖離が埋まらないまま、 進んでいってるのが現代の特徴かもしれないと思う。 一方で目に見えて、測定ができて、物質的経過によって 解釈され、その筋で方法論を導くやり方があって、 曖昧なものは、科学的ではない、とされる領域が一方の目盛で もう一方には、例えばスピチュアルなものとか、個性、とか 見えないものの方が重要なのであって そこに不備はない、という目盛りがある。 あっちの目盛とそっちの目盛をそれぞれ辿っていけば きっとどこかで一直線に結

森と微生物の対話は音楽的なあり方をしているに違いない

音楽と土に通じるもの 土中環境(忘れられた共生のまなざし、蘇る古の技)の著者、高田宏臣氏によると、森と微生物は常にコンタクトをとっているのだという。 私は先週都会から帰ってきて、一転、実家の土に触れながら思った。 その微生物と草や木のコミュニケーションの方法は音楽的なあり方をしているのかもしれない、と。 それは、その「音楽的なるもの」が何か、という定義から掘り下げて語らなければ繋がらないことなのだけれども。 相互のやり取りに活性化される 今週木曜日まで東京でワークショッ

あそびは日常か非日常か。

子どもたちの遊びと音楽のことを昨日書いた。 その連想ゲームみたいなもので、 ふと、 遊びっていうのは果たして日常なのか、非日常なのか、 というどうでも良いような、とても大事なことのような といが生まれてきた。 暮らしの中に息づく遊び・・なんていうじゃないですか。 わらべうた、とか。 私も子ども向けのワークをするときには、 日常に出会うもの、小さな虫や、動物や、お母さんの仕草や 隣のヘンテコおじさん、そんな題材を大事にしている。 でもな。 取り上げている題材は確かに暮らしの

小さい声に、小さい声で答えること。

ピアノレッスン生のグループワークの時。 幼児さんクラスは 生徒の一人が即興で何か歌い出したかと思えば、 それをいつしかみんなで歌っていたり、 クレヨンを人に見立てて友達とごっこ遊びをやったり、 好き放題やっているようだけれども、 私が小さい声で話し始めると、同じようにトーンを落としてくるようになった。 場を読み、場を作るのが上手くなってきてるなと思う。 そういう遊びの言語をだんだんとこの子達は身につけてきている。 歌はいつも手遊びや、ドローイングと一緒に。 歌を歌だけで歌

一枚の写真から音楽を読み取る試み

ある霧のたった朝の河辺の風景です。 ちょうど一羽の白サギが飛び立ったところ。 ここにある音楽を聴いてみよう、という試み。 あるいは、ここにある音を音楽に変換して感じてみる。 この瞬間の前後も読み取りながら。 音楽は音とは限らないくて、動きや、形。 また、そこにあるさまざまな質感を味わってみる。 そしてあらためて音楽を思い起こしてみる。 岸の直線、石積みの硬さ。 拡大してみて、水の方向や、質量 人の手によって密植された木々のミニマムな連続。 そして、さながらメロディのよ

レントな母とアレグロな私

実家での食事がまだるっこしい。 もうやがて90になる母の偉いところは 腰が痛くてもゴミ出しに自分で行く。 段差のあるところで手を貸してもはねのける。(気が強い) 必ず、花瓶に花が飾ってある。 夕方農作業(というより野原遊び)から私が帰ってくる頃に お風呂を入れてくれている。 花壇の手入れは欠かさない。(もうできません、と言いながら) お年頃故、同じ話をなん度も繰り返すが、 記憶はちゃんと更新されている。 とにかく元気でいてくれることに感謝しかないけれど、 ただ、食事の支度

人前で歌えなくってもいい

義母が病床で 「美香さん、何か歌って」 と請われたとき、 私は歌えませんでした。 いろんなものがつっかえていて。 それは音楽大学へ行く前から ずっと患っていてた、 コンプレックスやプライドや そもそも人前で「聞いてもらう」 ことの、性格的な不一致や。 さらには、大学でなまじ音楽ばかりやってきて その音楽の領域に枠ができてしまっていて。 それはそんなに大きい出来事だったわけではないけれども、 義母が亡くなってから 歌ってあげればよかった、と。 義母が亡くなってすぐ、 芸術