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日々に遅れて

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詩・散文詩の倉庫03
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#海

日々に遅れて

結局やって来なかった夏の記憶は、知らず知らずのうちにうす桃色の花の蕾に封じ込められる。名前を知らない花の開花を薄明のなかで反芻しようとしても、顔の無い夜の方にするすると逃げて行き、掴もうとする手はただ宙を泳ぐばかり。 早朝のごく限られた時間だけ朝日の射す場所でしか生きられない食虫植物のモウセンゴケは、密生する腺毛に朝露を付着させ、捕らえた光虫を小さな渦巻形に丸めてから、じんわりと消化してゆく。雫から弾け跳ぶ光の予感だけが私を生かしている。 やって来なかった? いや、気が付

夏の風

夏の風が吹く庭の 片隅に転がっている 枯れた紫陽花の鉢   乾いた土ごと取り出そうと 敷石にゴンゴンと当てたら 鉢がひび割れてしまった   ひび割れは夏の風に押されて 庭から道路へ伸びて行き 田んぼや野山を走り抜けて 遙か遠くの積乱雲を浮かべた 青い海に沈んで行った   とうに見失ってしまった時間と もう叶うことのない願いと共に‥‥    「干乾びた花と茎を切り落として   紫陽花の株を庭に植えましょう」   そう言って笑う君の声は 風鈴よりも涼しいから 私はカレンダーと天気

潮騒

冷んやりした部屋の 窓際に椅子を置いて座る   裸電球に照らされた オレンジ色の壁に 魚の形の染みが付いている   耳を澄ますと 梢を揺らす風の中から 足音が聴こえてきた   それはだんだん 大きく 近くなって ドアの前で ぱたっと止まった   (ただいま 誰も言ってくれないから   (おかえり 心の中で呟いてみる   また歩き出した 足音はだんだん 小さく 遠くなって やがて消えてしまった   誰だったんだろう   魚の形の染みが 部屋中に広がって行く   たぶん夜の海だっ

海鵜

港を望む小さな緑地 棕櫚の並木の間の ベンチに座って煙草を一服   突然 すぐ目の前の海上に 黒っぽい鳥が降りて来て 沖に向かってスイーと泳いで行くと   ジャボン!  海中に潜ってしまった   あれは海鵜だ 魚を咥えて浮上して来るかな? 白い鳥が視界を二度横切る間に 対岸の桟橋にフェリーが着いた  左手の岸壁に繋がれた小型船の手摺から 灰色の鳥が飛び立った   しばらく海面を眺めていたけれど 海鵜は上がって来ない 何処へ行ってしまったのか 諦めて近くのレストランに入った

冬を待つ

まだ頬の紅い子どもの頃に 玩具のポストに投函した手紙は 頬の蒼い大人になれば 約束の樹にもたれ掛かって 恋人を心待ちにしている時にしか 配達されて来ないから   舞い落ちるイチョウの葉っぱを 一つ一つ数えながら ひとり手紙を待っていた僕は 淡いピンクの残像だけを残して コスモスの花が萎れていることに 気が付いたのでした   最後の葉っぱを見送った ケヤキは空に辿り着けなかった せめてあの雲に触れようと 枝先を尖らせて 精いっぱいに背伸びするけど どうしてそれが 僕の胸に突き刺

遠目には黒い紐に見えた。近寄ってみると蛇の子どもだった。体長は二十センチちょっと。JR新幹線駅の東口を出てすぐの、駅前広場のフロアタイルの上に横たわっている。尻尾の後方の、コンクリートの柱と床との接合部に、蛇が出入り出来そうな亀裂が開いている。その奥に巣があるのだろう。小さな頭を僅かに床からもたげているが、なにしろ全身が真っ黒なので、どこが眼なのか皮膚から判別するのが難しい。駅前広場のずっと向こうを眺めているような姿のまま、ピクリとも動かない。その眼にはどんな世界が映っている

夏空

遠くの山並みは ゆっくりと褶曲を続ける 太古の竜の背骨 あの海に浮かぶ島々は 夜半に宇宙から墜ちて来た 小惑星の群れ だけどその上に ずっと遠くまで広がる 夏空と 流れて行く雲は かつて通り過ぎた街と とうの昔に別れを告げた人達が ふと振り返って 僕に寄こしてくれた通信だから 遠のいて行く街並みと 後ろ姿の白い肩先に 僕はどうやって 呼びかけたらいいのだろう 川堤の道のつゆ草と 萱の茂みに挨拶をしながら まだ青い稲穂を波立たせて 風が午後の平野を吹き抜けて行く 風よ