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日々に遅れて

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詩・散文詩の倉庫03
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#風

日々に遅れて

結局やって来なかった夏の記憶は、知らず知らずのうちにうす桃色の花の蕾に封じ込められる。名前を知らない花の開花を薄明のなかで反芻しようとしても、顔の無い夜の方にするすると逃げて行き、掴もうとする手はただ宙を泳ぐばかり。 早朝のごく限られた時間だけ朝日の射す場所でしか生きられない食虫植物のモウセンゴケは、密生する腺毛に朝露を付着させ、捕らえた光虫を小さな渦巻形に丸めてから、じんわりと消化してゆく。雫から弾け跳ぶ光の予感だけが私を生かしている。 やって来なかった? いや、気が付

光る髭

レース越しにうっすらと 円い鏡の見える出窓は 雲の螺旋階段ではなかった 月から吊り下げられた ゼラニウムの鉢でも コスモスの咲く庭でもなかった ただ私を送り出す人が 立つためにある出窓   朝の舗道を歩く それぞれの 靴跡は剥がされて 風の波紋を漂っては 消えて行く方向へ 顎先は誘われて 剃り残しの髭の二つ三つに 鈍く光るものを触知して ふと佇む 灰色の敷石のうえ   花はもう 散り果てている 代わりに芥が 花を模写して舞い踊る それは小さな 螺旋階段であり 街路樹に降り注ぐ

夏の風

夏の風が吹く庭の 片隅に転がっている 枯れた紫陽花の鉢   乾いた土ごと取り出そうと 敷石にゴンゴンと当てたら 鉢がひび割れてしまった   ひび割れは夏の風に押されて 庭から道路へ伸びて行き 田んぼや野山を走り抜けて 遙か遠くの積乱雲を浮かべた 青い海に沈んで行った   とうに見失ってしまった時間と もう叶うことのない願いと共に‥‥    「干乾びた花と茎を切り落として   紫陽花の株を庭に植えましょう」   そう言って笑う君の声は 風鈴よりも涼しいから 私はカレンダーと天気

初夏を聴くーラップフィルム

 初夏を聴く。初夏を聴け。そんな言葉を呟きながら、初夏の風が吹くイチョウ並木の道を自転車で走る。ショッピングモールの裏手に差し掛かった時、商品搬入口の半開きのシャッターが、風に打たれてガタッと音を立てた。チラと目を遣った瞬間、白い大型犬がシャッターの上方から飛び降りて来たように見えた。そいつは段ボール箱を積んだキャリーカートの上でフワッと宙返りすると、風に押し戻されて空中で一時静止し、その後ゆっくりと地上に舞い降りて来た時には優雅な女人の立ち姿にも見えた、と思ったら風に折り畳

洗濯の詩

洗濯の詩を 書いてみたいものだ よく晴れた日の青空と 清々しい風を感じる 女性が書いた 洗濯の詩を 幾つか読んだことがある あなた達の生活の 喜びと 楽しみと  夢と 憧れを 悲しみと 失望と 倦怠と 寂しさを しぼって パンパン叩いて 洗濯バサミで吊るして 風に晒せば みんな 何処へ 飛んで行くんだろう 白いシャツに 陽光が染み込んで 洗濯の詩 私にも書けるだろうか もちろん書ける 独居男性は もう長いこと 自分で洗濯しているから そうそう たまには 外干ししてみるか

冬を待つ

まだ頬の紅い子どもの頃に 玩具のポストに投函した手紙は 頬の蒼い大人になれば 約束の樹にもたれ掛かって 恋人を心待ちにしている時にしか 配達されて来ないから   舞い落ちるイチョウの葉っぱを 一つ一つ数えながら ひとり手紙を待っていた僕は 淡いピンクの残像だけを残して コスモスの花が萎れていることに 気が付いたのでした   最後の葉っぱを見送った ケヤキは空に辿り着けなかった せめてあの雲に触れようと 枝先を尖らせて 精いっぱいに背伸びするけど どうしてそれが 僕の胸に突き刺

熱気球試乗会

   1 森林公園の広場に 熱気球が繋がれている カラフルなパターン模様に アルファベットのロゴマーク ビジュアル系の巨大坊主だ 家族連れの長い行列が ゴンドラの前から 私とみーちゃんのいるこちらへと続き 試乗の順番が来るのを待っている   子ども達は風船で遊んだり 追いかけっこをしたり 紙ヒコーキを飛ばしたり 風ぐるまを回して走ったり おとなしく待っていられない   シャボン玉のひと群れが 青空に散らばって‥‥    2 のるのいや! のるのいや! い! や!

夏空

遠くの山並みは ゆっくりと褶曲を続ける 太古の竜の背骨 あの海に浮かぶ島々は 夜半に宇宙から墜ちて来た 小惑星の群れ だけどその上に ずっと遠くまで広がる 夏空と 流れて行く雲は かつて通り過ぎた街と とうの昔に別れを告げた人達が ふと振り返って 僕に寄こしてくれた通信だから 遠のいて行く街並みと 後ろ姿の白い肩先に 僕はどうやって 呼びかけたらいいのだろう 川堤の道のつゆ草と 萱の茂みに挨拶をしながら まだ青い稲穂を波立たせて 風が午後の平野を吹き抜けて行く 風よ