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日があるうちにやること

12/15/24
エルメスのギャラリーで内藤礼『生まれておいで 生きておいで』

図を何度見ても見つからない作品があり、職員に尋ねること2回。この吹き抜けの空間だからこそできるような、極小の物を隠すような配置だ。見つけてそこから、見た人にだけ回路がそっと開く。気付かずに通り過ぎる人たちを、作品である台に座して少しのあいだ眺める。凹凸のあるガラス壁から日差しがさざなみのように薄い影を伴って降り注ぎ、水彩ドローイングに重なって作品の一部になっている。開館してすぐの時間帯にこの作品を見ることができて良かったと思う。

毛利悠子『ピュシスについて』アーティゾン美術館
ブリヂストン美術館時代にルオーを目当てに見に行ったことが3回くらいあっただろうか。新しくなってからは初めて訪れた。 毛利悠子『ピュシスについて』。六本木のYutaka Kikutake Galleryで2年前に見た、「フルーツに電極を挿して内部の水分量などを測り、乾燥や腐敗によって生じる抵抗値の変化を音に変換する作品《Decomposition》シリーズ」(ギャラリーのウェブサイトより)が入口に。これ大好きだ。素晴らしいなあ。椅子に座ってじっと音を聞く。背後のライトがそれに合わせるかのように点滅する。中に入り、フルーツに繋がれた線の先にある丸い電灯がゆっくりと明滅し、その光が作る影が壁に伸びる。奥に進むと、幽霊が遊ぶ遊園地のような、機械仕掛けワンダーランドになっていた。これは会期後半にもう一度行かなければならないと思う。特に、音の変化を知りたい。 スケルトンの階段下にコーラの空き缶が転がっている。これも作品なのだろうと思いつつ、図には明示されていない。職員に尋ねると、解説には無い作品がふたつあるという。隅のドローイング?と、この空き缶と。学芸員にメールしたら答えてくれるかも、とのこと。
常設は解説聞きながら。ルノワールによる女性たちの肖像は頼まれ仕事なのか。なるほど、なんか腑に落ちる。ルオーは一度絵の具をたっぷり重ねてから削る手法で描いた。ナイフをガリガリやってる姿が目に浮かぶ、これじゃない、これじゃない、と言っていただろうか。 荒川修作の言葉が描かれた新収蔵作品《クールベのカンヴァス No.2》(1972) を見て、2000年代初頭のニューヨークで緊張しながら荒川修作とMadeline Ginsのスタジオを訪れ、話を2時間聞いてから撮影したことを思い出した。早口でまくしたてるような口調がそのままカンヴァスにあった。

12/16/24
ハン・ガン『引き出しに夕方をしまっておいた』読了。
正午、窓からの日差しの向きがとてもはやく移動していく。光に包まれながら椅子の位置をずらし、その中にいる間に詩集を読み切ってしまわねば、と思う。暗くなってから読む本ではない気がして。読み終えるタイミングで日が陰ってくる。すぐさま、DIC川村記念美術館のロスコ・ルームに再び行かなければならない気持ちになり、焦る。あの場所がなくなってしまう前に。

p103


その高速道路の番号は知らない
アイオワからシカゴへ行く高速道路の路肩で一羽の鳥が死んでいる
風が吹くとき
巨大な車が雷のような音を立てて通るとき
葉っぱのような翼が静かにはためく
十マイルほど走ったところで私を乗せたバスが雨に濡れはじめる
その翼が濡れている

P22
マーク・ロスコと私 2

ひとりの人間の霊魂を切り裂いて
中を見せてくれたらこうなのだろう
それで
血の匂いがするのだ
筆ではなくスポンジで塗りつけた
永遠に滲んでいく絵の具の中から
静かな赤い
魂の血の匂い

このようにして止まるのだ
記憶が
予感が
羅針盤が

私が
私であることも

染み込んでくるもの
滲んでくるもの

触ることのできる 波のように
私の毛細血管の中へ
あなたの血が

闇と光の
間に

どんな音も
光線も届かない
深海の夜

千年前に爆発した
星雲のかたわらの
古い夜に

染み込んでくるもの
滲んでくるもの

血まみれの夜を
抱いていても 浮かび上がるもの

たった今
稲妻が走る雲を
通り抜けてきた鳥のように

私の毛細血管の中へ
あなたの魂の血が



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