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学校の「評価」が昭和と令和で印象が違う件

 最近のモヤモヤをだらだらと書き連ねる回です。
 「評価」という言葉の定義が、肌感覚的に大きく違ってきていると思う昨今です。このことについてざっくりと書き出そうかなぁと思います。

1.個人的な「昭和的な評価」のイメージ

 超極端に言うと「先生が評価をしてくれた数字を見て自分で振り返りましょう」くらいのイメージ。成績表が学期ごとに配られて「俺1だった〜!」みたいに児童生徒も一喜一憂する様な。「成績表の数字=評価」であって、先生が何をもってしてこの数字を与えて下さったのか、改善の余地があるのかないのかもよく分からない。
 ・・・少なくとも、自分自身の小中学生時代はそのくらいの印象でした。

2.今更思う「令和的な評価」のイメージ

 現在の本来的な意味合いでの評価は、「診断と助言」に近いイメージです。NITS(独立行政法人教職員支援機構)さんがまとめている、学習評価の基本的な考え方は以下の通りでした。
学習評価:学校における教育活動に関し児童生徒の学習状況を評価するもの
「児童生徒にどういった力が身に付いたか」という学習の成果を的確に捉え,教師が指導の改善を図るとともに,児童生徒自身が自らの学習を振り返って次の学習に向かうことができるようにするためにも,学習評価の在り方は重要であり,教育課程や学習・指導方法の改善と一貫性のある取組を進めることが求められます。(引用:新学習指導要領に対応した学習評価 小中学校編)

3.そんでもってダラダラ所感

 令和的な評価って、先生側が結構大変な感じですよね。クラス一人一人の学習状況を捉え、一人一人が学びに向かえる様に促す。その為に指導改善を続けていく。うーん、大変!!だけれども、実際に現状ではその様な活動を求められているわけで。ただ、昭和的なイメージのままの方も未だにたまに見かけるわけで。両者がごちゃ混ぜ状態のセミナー会場で「評価」の質問をされても、全く話が噛み合わないまま流れてしまう。
 日本では教育は誰もが必ず受けて来ているので、先生になる場合にはその受けて来た「経験」がどうしても存在する。その経験からのイメージが先行してしまうと、現在求められている教育とは離れていってしまう。どうやったら受けて来たイメージに頼らず、アップデートし続けられるのでしょうかね・・・。本来は免許更新制度やらでやりたかったのかも知れませんが、結局なんだかうまくいかないですね。むづかしいなぁ。
 もし良いアイディアがあれば是非教えて欲しいです!
 

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