メロドラマとしての『東京物語』
数日前、小津の『東京物語』の後半部分、つまり笠智衆(平山周吉)と東山千栄子(とみ)が尾道市に帰ってからの話を見た。もちろん、『東京物語』は全部見てるけれど、ドラマが本格化するのは後半なので……都合がよろしかった……というか。
東京では元気だったとみが気分が悪いと言ったまま、昏睡状態になってしまう。医師は回復不能という厳しい見立てに子どもたちが尾道に集まる。とみは、結局、意識を戻さぬまま葬式となり、それを終えると、紀子一人を残し、子どもたちはみな東京に帰る。
一日遅れで東京に戻るという紀子に、周吉が、「省二のことは忘れて、いい人がいたら、お嫁に行ってくれ」と言う。紀子は「それは買いかぶりです。省二さんのことを忘れることもあるんです。心の隅で何かを待っているんです。私はずるいんです」と言う。周吉は「それでいいんだよ。あんたは正直者だ」と言って、とみが若い頃に持っていた懐中時計を形見としてもらっくれ」と言う。そして、「他人のあなたが私たちに一番、親切だった。」と言う。
号泣する紀子。
翌日、周吉の家族の中で紀子ともっとも親しく「お姉さん(兄のお嫁さん)」と呼んでいた末娘の京子(香川京子)に「きっと東京にいらしてね」と言って別れを告げる。
京子は小学校の教師をしているが、授業中、紀子の乗っている東京に行く汽車を教室の窓から見る。汽車の中で、とみの懐中時計をじっと見る紀子。これが事実上のラストシーンだが、紀子の顔は、悲劇的な顔をしている……と思ったが、再度見たら、全くの無表情で、何かを考え込んでいるという印象でもなく、いわば「無」の表情だった。
それはともかくとして、紀子はなぜ号泣したのか。周期に「他人のあなたが……」と言われて号泣するのだから、自己憐憫の情に誘われて……という解釈もありうるが、周吉の「いい人がいたら、遠慮せずに一緒になってくれ」という言葉で、自分は全く一人きりになってしまった、これまでは周吉夫婦がいて、東京でも世話をすることで、存在価値を見せることができたが、今後はそんな機会は来ないだろう……という「ずるい気持ち」でいたのかもしれない。
それはそれとして、そもその話、紀子の実家に戻るという方法もあると思うのだが、紀子の実家は全く登場しない。また制度的にも日本ではお嫁さんは嫁ぎ先の人間になり、「出戻り」とか言われる。要するに『東京物語』では、紀子は平山家の人間だが、夫が死んでしまうと宙ぶらりんの存在になってしまう。それを繋いでくれていたのは亡き夫の両親だったが、それも一人だけになった以上、近いうちに失われるかもしれない——という現実を目の当たりにして……と考えらると、やっぱり狡さも混じった自己憐憫の情に誘われて……と考えるのが自然かなあ……。
『晩春』では、娘の紀子を結婚させるために三宅邦子との再婚話がある、と言って紀子を嫁にやった後、小津安二郎は。笠智衆にに号泣するよう要求し、笠智衆は、これまで受けたことのない要求に驚きつつ、そんな演技は私にはできないと言って断り、小津もそれを受け入れて、荒海の映像に代えたのだったが、再婚話は、紀子を嫁にやるための一世一代の演技だったというのは建前で、実は、本気だった……とも考えられるが、でも、それで泣いてしまうとはちょっと腑に落ちない……。ただ一人になってしまった、という感慨はあったはずだ。
いずれにせよ、自己憐憫とはいえ、号泣させることに成功した『東京物語』は、「完璧なメロドラマ」——小津は、そう言っているそうだ——ということになるが、その場合、「愛し合いながら、なかなか結ばれない男女の姿を感傷的に描いた通俗ドラマ」(「新明解国語辞典」)だとしたら、紀子の相手は誰だろう。やはり、戦死した省二ということになるのかなあ……そうだろうなあ……。
ちなみにタイトルの写真は、上京した周吉ととみが、貧しい紀子の部屋でくつろいているところ。誰かが、やって来たのだと思うけれど……