親心ホットケーキ
あの頃の母はどんな気持ちだったのだろうと、最近になってよく考える。
それは、2年前から犬を育て始めてからだ。
幼少期の私は中耳炎を何度も繰り返す子どもだった。
「今日もキティちゃんの食べて帰ろうね」というニンジンをぶら下げられて、大嫌いな耳鼻科に長いこと通っていた。
「キティちゃんの」はデパートのなかにある。 そこに入っていたサンリオレストランのメニューだった。
ファンシーな店内はサンリオのキャラクターがそこかしこに並んでいて、子ども用の背の高い椅子はマイメロディちゃんの形をしていた。
テーブルクロスは星を散りばめたキキララ。
ケロッピーのクッションがソファーに並び、 大きなキティちゃんのぬいぐるみの横で食事ができる、まるで夢のようなレストラン。
病院での治療を終えると頑張ったご褒美にと、そこでいつもの「キティちゃんの」を注文してくれる。
キティちゃんプレートに乗せられたリボンのついたかわいらしいホットケーキだった。
病院はすごく嫌だったけど実のところ本当は、 幼稚園は休めるし、キティちゃんの食べられるし、母とずっと一緒にいられるしで、特別な嬉しい日でもあった。
でも母は、どんな気持ちだったのだろう。
母にとってはどんな日だったのだろう。
最近、ふとそう思う。
かわいい我が子(犬)が仔犬の頃、
目の中にぷちりと膨らんだイボのようなものを見つけて、私は大慌てで病院へ駆け込んだことがある。
先生は「これは生まれつきかもしれない。このあとこれが大きくなるのか、はたまた消える可能性もあるけど、どんな病状となるものなのか今の段階ではわかりません」と説明を受けた。
私はその帰り道、犬を抱きながらさめざめと泣いた。(この子の目が見えなくなったらどうしよう)(もっと早く気がつくことができていたら状況を変えることはできたのかな)と不安でいっぱいだった。
いつのまにかとっぷり日が落ちているのにも気が付かず、眼科専門の獣医さんをとにかく調べまくっていた。
真っ暗な部屋に夫が帰ってくると、ギョッとした顔をして固まっていたけど
お構いなしの私は、心配のあまり口から飛び出すような早口で犬の病状を伝えた。
すると、夫は
「どんな身体であっても、この子の個性だから、自分たちにできる限りのことをして大切に育ててあげようよ」と、至極真っ当なことをゆっく〜りと言った。
目の前でパチンと手を叩かれたような気持ちになった。
催眠術をほどかれた人のように惚けた顔をしていたと思う。
本当にその通りだし、本当にそれ以外できることはなかった。
私がキティちゃんのホットケーキをうれしそうに頬張るとき、母はどれだけ切なかっただろう。
‘この病は自分のせいかもしれない、だけどどうか治りますように、問題なく過ごしてね、健やかでいてね’と
そんなことを思いながら、特別なおやつを与えてくれていたのだとしたら、その時間はとても心苦しかっただろうと思う。
そのおやつで病気が治るわけではないとわかっていても、辛いことのあとはせめてご褒美になるものを与えてあげたいと思うのは親心だったのだろうか。
私も病院から帰ってきた犬に特別高いおやつをあげながら、「なんか知ってるなこの感じ」と思っいた。
そうか、あのとき母は私にずっと謝っていたんだと気付いた。
結局、成長とともに私の中耳炎は治り、 犬の目にできたものは消えた。
その後のある日、散歩をしているときのことだった。
昇りはじめた朝日の中で、犬が元気よく走る姿を見ていたら、突然(なんだそういうことか)と腑に落ちた。
犬が緑の茂みの中をわっほわっほしながら楽しそうに歩いたり、鳥の声にふと立ち止まったりする姿を見ていると、
あぁ生きていてくれてありがとう って
ありがとうございますって 誰かに言わなきゃ気が済まないくらいの感謝の気持ちが溢れた。
これもきっと、母からもらった“親心”だとおもった。
母も同じように、私を見て感じてくれたことがあったのだろうか。
そう思い浮かべるだけで、私はたっぷりとこの身体に愛が含まれている感覚になる。
「ここにいるだけで」
誰もが、誰かにとってそういう存在であるのだろう。
ままならないことがあっても、すべてが思い通りでなくたって、なにもしてあげられなくても、ただここにいるだけで。
もし、誰かを幸せにすることができるなら、
それは自分自身を生きること以外思いつかない。
夏の日差しがあっという間に洗濯物を乾かして、
取り込んだばかりのシーツの上に犬がやってくる。
大きなあくびをする横で 私も大きく伸びをする
なんてことのない瞬間だけど、
私はずっとこういう時間の中にいたかったように思う。