かもめの玉子
小さい頃から「お茶の時間」をする大人の横にいるのが好きだった。
小学校から帰ると一目散にランドセルを放り投げて、近所のおばちゃんの家に行く。
昼下がりのまったりぼんやりした空気の中で、誰も見てないテレビからワイドショーが流れてた。
ブラインドの隙間からオレンジ色の西陽がさして、陽だまりにクリーム色の犬が寝息をたてている。
ちゃぶ台の横にはポットがあり、急須にお湯を継ぎ足しながら永遠と温かいものを飲む母とおばちゃん。
息継ぎもせず喋り倒し、それはそれはよく笑って、
お茶を飲みながらぽりぽりお菓子をつまんでいた。
たらたらたらたらたらたらと緩んだ蛇口からやわらかな水がこぼれるように、お喋りが続く。
のんびりした空気に包まれ、わたしは胎内に戻ったような、なにか守られている心持ちだった。
犬を撫でながら(あぁ大人って本当にずるいなぁ)と羨む。わたしにはずっと一緒にいたいと思うような同世代の友だちがいなかったので、余計にそう思ったのだろう。
その気持ちは学校にいるときも思い出し、窓の外を見ながら(今もきっと母とおばちゃんは仲良くのんびりしてるんだ…)とあたたかな部屋を想像しては、恨めしく思っていた。
お茶を呑み、甘いものをつまんで、
一緒に過ごす。
とりとめなく話して、話しながらときどき思い出したように怒ったり、泣いたり、だけどそのあとはたいてい風船が割れるようなタイミングでワッハッハと笑い合っていた。
あんなに羨ましいと思っていた母やおばちゃんが、どうにもならないまま持ち続けている人生の荷物があることを理解できたのは、わたしが大人になってからだった。
幼いわたしにはじめて訪れた死は、その大好きな犬だった。
ほどなくして母は祖母の介護が始まり(その後18年間続いた)、わたしは中学を不登校となり
そしてみんなから愛されて頼りにされていたおばちゃんはその後、自ら命を経ってしまった。
お茶の時間に必要なものは、甘いもの。
そして冷めることのないあたたかな飲み物とあてのないお喋りだ。
人生にはときどき、塩辛くて、苦くて渋いことがあるから、そんなときは甘いものを食べたい。
ひとりでは抱えきれないどうにもならないことをつらつらと語らいながら、互いを励まし合って、埋められない孤独をただ認める。
どんなに理不尽なことが起ころうとも、誰も自分の代わりを生きてくれない。
ほんとうの寂しさはひとりひとり、それぞれに持っているものだから、完璧に理解することはできないだろう。
だから答えがほしいんじゃない。
納得したいのだ。
けれどそれさえ難しいことのほうが多い。
ただ話しているうちに、ふと笑える瞬間が訪れるのをわたしは何度も横で聞いていた。
誰かと一緒にお茶を飲む。
ひとりでも、自分のためにゆっくりお茶を飲むのだ。
それだけで、この‘なんにも解決していないなにか’を認めることができる気がする。
そのくらいほんのささいなことでいい。
ささやかなあの時間が母とおばちゃんにとって
今日と明日を生きていくために必要な時間だったのだと、今ならわかる。
おばちゃんはかもめの玉子という岩手県の銘菓が好きだった。
たまごに見立てた白く小さな丸いお菓子は、ホワイトチョコでコーティングされて中に黄味いろの餡が入っている。
親指と人差し指でつまむと、ころんとちいさなまあるいお菓子。
とてもかわいらしくて一口で頬張るにはもったいなくて、少しずつかじってはちまちまと食べていた。
我が家では出張の多かった父のお土産レパートリーのひとつで、母はそのたびいそいそと‘玉子’を階下へ運んでいた。
差し出す母も、包みをあけるおばちゃんも、どちらも嬉しそうな顔をしていたのを覚えている。
「とりあえず、お茶飲んでく?」
ひととき重なり合ったあの時間はどこへ行ったのだろう。
その記憶の問いかけに応えて、懐かしい笑い声が鈴の音のように遠く、今もどこかで聴こえている気がする。
このエッセイはわたしが食べてきた
甘いものを綴ってゆくページ。
ひっそりと書いてきた文章を
これから少しずつ
載せていこうと思います