読書感想文ーー『過ぎる十七の春』
小野不由美『過ぎる十七の春』を読んだ。
小野不由美主上の、初期の作品の再文庫化。角川文庫。
その家の長男が十七歳になると、発動する呪詛。
母を殺し、自分も死ぬ。
嵐のように読んでしまった。
嵐のように襲いかかる、呪詛。引きずり込まれるような、呪詛。抗うことができない強力すぎる呪詛。怨念。
直樹と隆という、従兄弟の十七歳のふたり。
最初は隆が、次は直樹が呪詛に巻き込まれる。
直樹の語りで基本的には物語が進む。だから、呪詛に巻き込まれていく、直樹の思考や、呪詛に乗っ取られていく様子がまざまざと描かれることになる。小野不由美主上の筆力が光る。
正直怖い。怖すぎる冷静さ。冷静に狂っていく。狂いながら冷静だ。
最後、呪詛を乗り越える、ほどく、どんな言葉が正しいのか分からないけど、そのクライマックスが悲しい。母子の関係の巡り巡る因果。
呪詛の始まりは、何であったのか。
時代を経ると、もはやなぜ呪われるのかも分からなくなって、怨霊とのバトル、呪詛を回避するための知恵比べ。
始まりが何で、どうして困難な今があるのか分からないことって、たくさんある。
そして始まりを知ることが、唯一の解だったりする。
始まりで躓いたこと、最初のボタンの掛け違いが大きく傷を広げること。
この本を読んで、今分かり合えない相手と、分かり合うために必要なことは、目に見える必要な事実を知ることだけではなくて、もっと深く最初を知ることや、和解するための妥協点を自分から見つけていくことなんではないのか、ということを思った。
もちろん、この小説はサスペンス、ホラー、ミステリーのジャンルだし、怨霊、呪詛と分かり合うなんて、次元の違う話ではあり、命懸けの駆け引きの話なので、妥協点なんて考えられないのだが。
小野不由美主上の(たぶん)考えの根本にあるのは、怨霊や呪詛もまた、人間であるということ。呪いが人間によって作り出しされたものである限り、とても人間臭いものであるということ。おどろおどろしく、死んだ人間が、生きた人間を呪うのは、祟るのは、それはかつて呪っている人間もまた、生きた人間であったから。
生きた人間が望むことは、同じように死んだ人間も、道理を外れた存在になっても、望むことであるということ。
呪いや祟りが怖いのは、そういう理由。
一番怖いのは、呪いでも、怨霊でもなくて、それを生みだしてしまう、人間。
【今日の英作文】
「母は時々特に用のない長電話をしてきます。余裕のない時は、母の電話を辛いと感じます。」
"My mother sometimes gives me a long call for nothing special. When there is no room in my heart to answer it, her call is hard for me.''
#日々 #日記 #文章 #エッセイ #毎日note #毎日更新 #読書感想文 #小野不由美 #過ぎる十七の春 #アウトプット英作文 #一番怖いのは #ホラー #ミステリ #サスペンス
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?