慌てる私と、叱らない所長
今週は、とてもしんどい1週間だった。
時間外で不測のできごとがあったり、仕事中にも色々もあった。
私が働いているのは、企業食堂だ。皆さんにお昼ご飯を提供するのが、主な仕事になる。
お昼時というのは、当たり前だけど、皆さんだいたい同じ。だからラッシュになる。
ラッシュというのは、ポジティブに強いて言うなら、嬉しい悲鳴。
でも、本当のところをいうと、間に合わないかも、並んでる、待たせてる、どうしよう。小鉢が足りない、味噌汁のお椀が足りない、あ、ソースの小瓶が空だ。ドレッシングの瓶は大丈夫かな。今度は付け合せの千切りキャベツがない! そんなふうに、目まぐるしく立ち働くのが、ラッシュ時。
慌てるな。焦るな。いそぐな。
それが、所長をはじめ、私の先輩にあたる人たちの心得。
でも、ずらりと並んだお客さんを見ると、どんなに「焦ってはならんぞ」「慌ててはならんぞ」「大丈夫」と思って、自分に言い聞かせても、色々と無理がある。現実と理想の乖離というか。
特に、2つある定食の1つをほぼ1人で任されている時は、正直くるくるぱーだ。最近(1年経って)やっと、「慌てるな」と自分に言い聞かせる余裕ができた。
そんな具合なのです。
で、さらに追い討ちをかけるようなできごとというのがあって、それは予定食数が全部出てしまった時の判断。
大抵は追加の皿を出すことになるのだが、メニューによってはできない場合や、あえてしない場合、メニューを変更して提供する場合がある。
そして、その判断は所長がすることになっている。
調理し、料理の準備をするのは、所長しかできないのだから当たり前ではあるけど。
その所長も、ただ料理を作るだけが仕事ではないので、常に厨房内にいるわけではない。
困りました事態の時に、所長が厨房内にいない時、いても足りないのに気づかない時もある。
だから、「残りいくつです」とか「おしまいです」とかを、分かった時点で所長に「時を見て」報告する。
この間、所長がいないのに、もう片方は完売し、私が担当する残るひとつのメニューも残りわずかで、ついになくなったという時があった。
厨房内にいるのは私だけ。もう1人の先輩は洗浄に入っている。ピンチである。
こんな時にお客さんが来たらどうしよう!
運良く所長がふらりと帰ってきたので、もう「時を見る」とか所長が大変そうであるとかないとか関係なく、「所長、完売しました。どうしましょう」と言った。
時間としては、食堂を開けている時間の終わりごろだった。終わりごろに来るお客さんの数は知れてはいるのだが、「どうしようどうしよう」のぐるぐるにいる私はたぶん、慌てた、悲壮な声をしていたのだと思う。
「慌てる必要はないから。追加出すしかないよね」
ため息と、やれやれ感たっぷりで、つぶやきが返ってきた。
できごととしては、それだけ。
慌てる私。どうしよう、所長もいないし、勝手に追加の皿を出していいのだろうか。追加の皿をやっていいのか、悪いのかもわからない。所長の腹積もりが分からない。お客さんいつ来るかわからない。付け合せの準備もしなきゃだ……(ぐるぐる)。要するに、どうしていいのかわからない、パニック状態だ。
常日頃「慌てるな」と言われていて、まずその掟を破っている。
その上、分かりきったことを聞くのは、誰でもどこでもだけど、あまり歓迎されない。
所長のやれやれ感たっぷりのつぶやきが、ずおおおーーんと重くきた。
すいません。無能でごめんなさい。と思った。
その後は、それこそずっとしょんぼりだ。
ある意味、叱られた方が楽だ。
「分かるだろ!」
と言ってもらった方が、楽だ。
呆れられて、「またかよ」とため息のつぶやきは、必要以上に堪える。
慌てる私と、叱らない所長。
いつまでも成長しない私を、突きつけられたみたいで、いつもよりその日は疲れた。
毎日暑くて、人生で経験したことのない汗をかきまくる日々。アクリル板70枚拭きも健在で、実行中だ。熱中症気味の毎日で、頭もフラフラ、体もしんどい。だから正常な判断ができなかった、と言い訳したいけど、たぶん叱られないことのしょんぼり度合いは、変わらなかっただろうなと思う。
*
余談にはなるが、「同じ失敗をくりかえすのは、バカのすること」と、私はずっと言われて育った。私の親の方針だ。「バカにはなりたくないでしょ?」「何度も同じこと言わせないで」「バカはだめなことだ」。
そんな意味が含まれている。
小さい頃から、ずっと言われて育った言葉というのは、呪いのように強い。
私は失敗が怖いし、「こいつバカだ。使えない」と思われることは、失敗以上に怖い。
あーあ、と思う。
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