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【読書感想文】推しと寂しい言葉

宇佐見りん『推し、燃ゆ』を読んだ。

芥川賞に選ばれた作品。

この間、英会話のテキストを買いに行ったら、文庫が並んでいたので買って読んでみた。

この本を読むまで、私は「推し」というものがよく分かっていなかった。

そういうわけで、当然ながら私には「推し」はいないなあと思ったし、これからも「推し」ができるのかどうかは、よく分からない。

私はSCANDALというバンドが好きで、Spotifyでも配信されているポッドキャストを毎週楽しみにして聞いている。

そのリスナーからのメールに多いのが、

「ライブ中、涙が止まりませんでした」
「(新曲)ありがとうございます」
「ライブをしてくれて、ありがとうございます」
とかとか。

これはほんの一部に過ぎないのだけど、なんだかよく分からない感覚だなと思う感想たちだ。

ライブ中、涙が止まらない。

うーん、曲の内容やSCANDALの表現が、心に刺さった的なことだろうとは思うけど、ずっと泣いてるの?

涙腺は大丈夫?

感情の方も大丈夫?

状況的にも大丈夫?

SCANDALのライブって、ライブハウスで爆音のガンガン系だよね?

そのノリの中でずっと泣いてるの? 涙はどうしてるの? ちゃんと拭いてる?

ちょっと想像が追いつかない。。。

新曲ありがとうございます。

新曲は嬉しい。私も嬉しい。素直に嬉しい。

でも、感謝?

感謝というのは、何かをしてもらって、ありがたいと思うから、「ありがとう」という言葉になる。

新曲をだしてもらって、嬉しいところまではわかるけど、感謝までしちゃうの? (そのうち拝みそうだ。いやもう拝んでいる人はいるのかな)。

あっちもこっちも、表現が過剰すぎないか。

さてこの『推し、燃ゆ』は、上野真幸(うえのまさき)という男性アイドルを追いかける(推している)女子高校生あかりの物語だ。

その推し(アイドル)がファンを殴るというスキャンダルを起こし、炎上騒ぎになる。

この小説によると、「推し」という存在は、推す人にとっての精神的な背骨のようなものらしい。

生きていく上で、欠かせない支えになるもの。

小説の中でも、主人公の女子高校生は、推しのために生きていると言っても過言ではない。

上手くいかない人生を、推しを推すことで、何とか生き繋いでいる。

でも、推しを推すとは、(安くはない)グッズを買ったり、ライブに行ったり、ラジオやテレビに留まらず、SNSをずっと追いかけたり、そのライブ配信をチェックしたり。とにかく即物的に言うと、時間とお金と心を、献身的以上の気持ちで使うこと以外何者でもない。

ただ応援するのと違うのは、その熱の入れようと、のめり込みよう(なのかな)。

私はSCANDALが好きだけど、ライブには2回しか行ったことがないし、グッズもタオルをその時1枚ずつ買ったくらい。CDもアルバムは買うけど、シングルまではな、とかライブ映像のDVD/Blu-rayまではな、と思ったり思わなかったり。

だから、「推している状態」ではないのだろうと思う。

この本の主人公のことを考えても、実際SCANDALのポッドキャストに送られてくる熱烈なメールを聞いていても思うのは、どことなくただよう危うさ。

何がどう転ぼうが、私はこの推しについていく。自分以外に人生そのものをかけてしまうような、ギャンブル感が見え隠れする。

時間もお金も心も有限なのに、全国で行われる全てのライブ公演に参戦することが、ものすごくいいことのような、ものすごく誇らしいことのような印象を受ける。

SCANDALのメンバーがそれを推奨しているわけではなくて、ファンもとい、推す人としての、行かなくっちゃ! 的な。

私はすごいなあ。よくお金も時間もあるなあ……。と思うだけだけど、そうでなくて、行けないがために、穏やかならぬ気持ちになる人もいそうな感じ。

実際、私が行ったSCANDALのライブの帰り道には、そのツアーの次の公演では、どの曲を演奏するかのあてっこをしているファンたちがいっぱいいた(SCANDALは、大抵全ての公演でセトリを変える)。

推しのためなら、なんでもできる。なんでもする。

推しがいるから、日々がおくれる。

推しのいない生活なんて想像ができない。

だって、推しがいる。推しは推す人がいなきゃ存在ができない。私がやらなきゃ。推しは推せる時に推す。

実際触れることも、言葉を交わすことも簡単にはできない相手に、心も時間もお金も、何もかも「捧げる」。

推しがいなくなる(かもしれない)ことを前提としない生き方に、私は不安を感じずにいられない。

小説も、その方向に動いていく。

破滅。

という言葉が浮かぶ。

推しはスキャンダルで炎上し、単なる素敵なアイドルではいられなくなる。推している女子高校生にとっては、事件の事実や、当事者たる推しの本当の気持ちも分からないまま、理解する機会も与えられないまま、憧れの世界は強制的に閉じていく。推しと推す人(一般人)では、事実を知る接点がないにも等しいから。推測の域を出ない情報で、わけが分からなくなるしかない。

日々を生きる時に、推しという存在を持ち、推すことで、やっと呼吸ができ、生きている実感が持てる。

小説の女子高校生の推しを推すという名のアイドルへの執着、依存とも呼べる状態に、私は不思議な感覚を持つけど、これが世の中的には、程度の差こそあれ、普通なんだろうか。

だから、涙が止まらなかったり、ありがとうの連発が起こるのだろうか。全てのライブの公演に行こうという、突拍子もないようなことを実行する人がいるのだろうか。

言葉は使いすぎると、その意味や価値が薄れたり、軽くなったりする。

ネットにも、リスナーメールにも溢れる「涙」や「感謝」がただのお決まり文句のように流されている言葉なのだとしたら、それはとても寂しいことなのではないのか。

命懸けで推している推しに届けたい言葉は、そんな薄っぺらではないはずなのに。

精神の背骨への執着は過剰なほどなのに、言葉は乏しく、虚しい。

【今日の英作文】
ひとり遊びのバリエーションが豊富なのが私の強みです。
My strength is the wide variety to enjoy myself.

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