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「ハウルの動く城」を30歳すぎてから観なおして感じたこと
「ハウルの動く城」を数年ぶりに観なおした。
ジブリパークに行く予定があったので、その前に復習として。
最初に見たのは公開当時の劇場で、そのあとしばらくは学校の友達とハウルのカッコ良さにはしゃいだ。昼休みの学食で「うまし糧!」とかいうぐらいにはハマっていた。ただ、ストーリーとしてはなんだか結局よくわかっていなかった。
以来、金曜ロードショーなどで見ることもあったが、テレビを見なくなったのもありここ数年はご無沙汰だった。
アラサーとフォーの間ぐらいになった今再び視聴したところ、刺さり方が随分変わっていた。
そして物語がスッと頭に入るようになった。
多くの作品ファンからしたら当たり前の見方かもしれないが、折角自分が大人になることでそれに気づけたので、まとめておく。
![ハウルとソフィーが出会った直後に一緒に空を飛んでいる場面。ソフィーは呪いがかかる前でまだ若い。](https://assets.st-note.com/img/1730569757-GphW5fkmOX6J71gSs82KuoTc.jpg?width=1200)
※記事内の各画像は、スタジオジブリが公式で配布している物をお借りしています。https://www.ghibli.jp/works/howl/
ハウルとソフィーの対比構造
当時はこれ結局なんの話だったの?と思っていたが、要約してしまうと、多分こう。
『ハウルの動く城は、自己防衛のために若くして老人の心をまとった女性と、現実逃避として少年の心のまま成長をやめた男性が、お互いに相応の心を取り戻し自分と向き合う話。』
呪いとか心臓とか約束とか戦争とか、いろいろ要素があって気付くのに時間がかかったが、実はかなりシンプルな対比構造だった。
老いがもたらすパワーと副作用
![老婆となったソフィーが、埃まみれでぐちゃぐちゃの部屋を必死に掃除してる場面](https://assets.st-note.com/img/1730565009-HU71aBCMfSh9PFpyJZoOXkwn.jpg?width=1200)
今回の視聴で一番見方が変わったのは、ソフィーに対してだ。
ソフィーの呪いは彼女の心のありようを反映しているが、呪いで老いてからの方がどうも元気に振舞えているように見える。
なんとなく張り詰めて苦しそうなソフィーが元気になった最初のきっかけは、恋ではなく老いなのではないか。
ソフィーは老いてから、良い意味で無遠慮に厚かましく振舞えている。飛び込んだ先の城で勝手に掃除婦を名乗ったり、城の階段の兵隊に文句を言ったり、言葉遣いもかなり老人を演じている。
これが、救いでもあり悲しくもあり、今回本当に「わかる!!!」となったポイントだった。序盤の馬車に揺られて山へ向かうおばあちゃんソフィーを見て、なぜだかボロボロに泣けてしまった。
![広大な山脈を前に、牧草を大量に積んだ馬車の後ろにちょこんと乗せてもらっているおばあちゃんソフィー](https://assets.st-note.com/img/1730567980-zCXqsRvE6oOkaADjUyu1nGxr.jpg?width=1200)
女性に限った話ではないかもしれないが、若い頃って、なんとなく容姿をジャッジされるポジションにいる感覚が、正直ある。
優れているとか劣っているとかに関わらず、自分で望んでいない「若い女性」というレッテルがなんとなーく背中に貼り付いていて、その窮屈さというのをふわっと感じることがある。それが自分の勝手な想像だとしても。
それが、いわゆるおばさんというポジションに移動していくと、窮屈さから解放される気がする。色々な衰えはあるが、心の在り様としては以前よりも周りの目を気にせず自分主体でいられるようになってきた。
あえて無遠慮に振舞うことで、コミュニケーションを円滑にするような芸当も、少しはできるようになった。
だから、ソフィーが呪いで老いてしまうことで、むしろ急に自由に動けるようになるのもよくわかる。彼女はジャッジされるポジションから強制的に降ろしてもらったのだ。老いは呪いだが、心の鎧でもあった。
ただしこの元気は、人からどう見られるとか、自分の魅力や価値について、直視しなくても良くなった安心感から来るものである。
時間をかけて老いたならともかく、本当は若いソフィーにとっては、異様に低い自己評価と外見が何故か釣り合ってしまっている、危うい状態だ。
だから、老いという鎧に頼りすぎると、必要以上に呪いが進行して心も落ちてしまう。
容姿と自己否定
![机に座り帽子を作るソフィー(呪い前)。机には色とりどりの帽子の素材。壁面には飾り用の花の素材など。](https://assets.st-note.com/img/1730569846-cA4Dw13yjvE9Zx2GPFbT8RX5.jpg?width=1200)
ソフィーは自己否定のセリフが多いが、特にそれは容姿に対して顕著である。
癇癪を起こしたハウルに「美しかったことなんか一度もない」と言い捨てる。老婆に変化したのに「服も前より似合っている」という。年頃の娘が自分で選んだ服について、おばあさん向きだと自分で思っているのだ。このシーンは前向きなようでいて、実はかなり切ない。
ハウルに「ソフィーは綺麗だよ」と言われた瞬間には、それが受け入れられなくて最大級に老け込んでしまう。
自己評価が低い人間にとって、賞賛は自己認識との不協和を起こすので、喜びよりも強い拒絶感が生まれたりする。ソフィーの自己評価の低さはわりと筋金入りだ。
これは、派手で美しい義理の母や、その娘である妹との比較によって、生まれてしまったコンプレックスなんだろう。大人同士一応は仲を保っているが、心のどこかには、奔放に生きる女性に対して反発や忌避感もあるのかもしれない。そういう複雑な要因が、彼女の自分自身の価値を下げてしまった。
美醜やおしゃれに興味がないように見えて、実は誰より容姿の概念に囚われているのが、ソフィーという女性だった。
荒地の魔女は自己実現の人
ソフィーが老人という心の鎧を着て元気になっている時は、はつらつとした元気おばあちゃんになる。しかしそれが行き過ぎると過剰に老け込む。
鎧に頼らずに、繊細な心の機微や痛みに向き合って正直に生きている時は、本来の若い姿に戻っていく。
荒れ地の魔女がかけた呪いは「老いの呪い」ではなく、「心の在り様を容姿に反映させる呪い」だ。
![荒れ地の魔女が目を見開いて笑いながら、画面いっぱいにこちらを見つめてくる場面。](https://assets.st-note.com/img/1730565169-hHzope2jaf5w0gqFmcvYDbTd.jpg?width=1200)
荒れ地の魔女もまた、容姿に固執していた女性である。だが彼女は、見た目を若く保つために魔法を駆使してなりふり構わなかった。欲しい物を力づくで手に入れようとする、ある意味では努力と自己実現の人だ。
そんな荒れ地の魔女の前に、若さも美しい容姿も持っているのに、頑なにその価値を認めずいじけているソフィーが現れたのだ。多分、すごくむかつくと思う。何この女ふざけんじゃないわよって感じだろう。
荒れ地の魔女にとって、ソフィーがハウルを助けたことは単なるきっかけで、本当の怒りポイントはソフィーの心の在り様だった。それを初対面で見抜いたからこそ、この呪いの内容になったのだろう。
荒地の魔女はソフィーの呪いを解いてこそいないが、あれほど熱望したハウルの心臓を、最終的にソフィーに譲っている。
憶測だが、ソフィーの見た目と年齢が一致し、人に素直に願望を告げられるようになったのを受けて、最初の怒りをここで許したのかもしれない。呪いは解けないけど、それに代わる彼女なりの清算だ。
少年であり続けること
一方のハウルである。
かつてカルシファーと契約した事で、子供時代のまま心臓が、つまり心が時を止めてしまっている。
それは契約による副産物かもしれないが、結果的にいかにも少年といった状態のまま、深く物事を考えず、現実を見ずに生きているように見える。自信過剰だが傷付きやすく、自分の行動に対する結果と向き合わず、意外と繊細。
自分で荒れ地の魔女にちょっかいを出しておいて、復讐を恐れてまじないアイテムを大量に飾ったりしている。容姿に自信がありおしゃれが好きだが、ヘアカラーに失敗したり女の子に振られただけで、癇癪を起こしてどろどろになったりする。
このあたりのエピソードは顕著だが、個人的には、戦争に対する振舞いがかなりそれっぽいなと感じている。
戦争を嫌悪しているらしいのに、戦闘自体を楽しむような振る舞いを隠せない。花畑を戦闘用の飛行船が飛んでいれば、魔法で挑発して結果として敵の攻撃を誘ったりしている。
![花畑にて、挑発的な笑顔で空に手をかざすハウルと、それを見つめるソフィー。](https://assets.st-note.com/img/1730566390-uFP8vJIxpDiGkBrsonN5jf9U.jpg?width=1200)
ハウルは、少年時代に時空を超えてソフィーと出会い、以来彼女と出会う日を待ち続けている。
ソフィーと出会ってからは、苦手とする王宮と向き合ったり、逃げるのをやめ以前より勇気を持てるようになった。
しかしこれは、ソフィーにとって老いが鎧であったように、ハウルにとって少年の心がもたらす勇気だったのではないだろうか。今までは弱虫だとしても、かっこつけたい運命の女の子が現れ、その人が本当に魅力的だとわかって、強く振舞えるようになったのではないか。
それが行き過ぎて、ソフィーを守るという大義名分を得た際には、己の正義に陶酔して一人で戦争に行く。そして、ほとんど怪物になりかけてしまう。
結果的に爆弾を止める場面などはあったが、少なくともソフィーはハウルが戦争に行くのを望んでいなかった。その心配と向き合うそぶりすら、この時のハウルにはなかった。
重たい自分の心と向き合う
ハウルは最終的に、ソフィーによって心臓=本来の心を戻される。
その際の「こりゃひどい、体が石みたいだ」「そうなの、心って重いの」というやりとりは印象的だ。
2人が自分の心とまっすぐに向き合えるようになり、ハウルだけでなくソフィーも、心の正しい重さを受け止めている。だからこそ出るセリフだ。
![物語のエピローグで、青空をバックにしたソフィーとハウルのキスシーン。ソフィーは若い姿。](https://assets.st-note.com/img/1730567624-24l0LNh6XMUcbapz5VSBd8Cg.jpg?width=1200)
ソフィーが、老いによって困ることも救われることもあったように、ハウルもまた、少年の心のおかげで勇気を持てたり、それによって呪いが進行し怪物になったりする。低い自己評価の行き着く先が老人で、少年の心を手放さなかった結末が怪物だ。
「ハウルの動く城」の中では、二人の性質がかならずしも絶対に治すべき悪い物とは描かれていないように思う。かつて誰もが持っていた少年の心、これから獲得するであろう老いの心として、善し悪し両側面で描かれている。
最終的に自分の心と向き合う話ではあるが、この作品において、時に手段として鎧や逃避を取る事は、完全には否定していないのではないだろうか。
苦境を乗り切るためにそういう手段をとることもあるけれど、でもまあ出来るなら今の自分に素直になった方がいいよ、やりすぎると戻れなくなるよ……というぐらいの温度で語りかけてくる。
そういうふんわりした部分が、昔の自分にとって物語の主題を曖昧にさせた要素でもあり、今は説教臭くない優しさであるように感じられる。
ゆるやかに老いを意識する年齢になって観る「ハウルの動く城」は素晴らしかった。
またしばらく寝かせておいて、10年20年先に鑑賞したい。最終的にはソフィーばあちゃんと同じ年になった時にも観たい。その時の自分はどんな感じ方をするだろうか。
![ハウルの動く城の城が空を飛んでいる場面。](https://assets.st-note.com/img/1730568934-j0dUvOnp42qcgYkLTamJ8QKD.jpg?width=1200)