「根明だよね」
初めて言われた。
人と話すときは基本的に明るい元気な人間だけれど、昔から考えごとばかりしていたせいで明るく振る舞えば振る舞うほど「根暗だよね」と言われることが多かった。
そして、自分自身でも根暗な人間だと思っていた。
ハイになることや楽しいことが好きな反面いつでも冷静に俯瞰してみる部分があったし、本心・本質を掴みたいという欲が周りの人よりも強いこと(それが強すぎて"なんか嫌な奴""鼻につく奴"の面が自分にあるのを引け目に感じていること)を、理解していたから。
人と話すときに明るく元気になる自分も、自分の嫌なところを嫌いになりすぎて自分のことが嫌いになってしまった自分も、どちらも本当の自分だから、どっちが「根」なのか?という問題は物心ついたときから頭にあった。
そういう時に人から根暗だと言われることが多かったから、あぁ暗いほうが根っこになるんだな、となんとなく思っていただけなのだが。
そんな中で数ヶ月前、仲良くなったばかりの人に「根明だよね」と言われた。
なぜか分からないけど、ものすごく嬉しかった。
場を楽しむ才能を持っている(意訳)ということを言われ、本当に嬉しかったし、自分が根暗だと思うことで消されていた自分の良いところを見つけ出してもらえたような気がした。
「そう、自分は根明だった」
この発見は自分の中でかなりの衝撃というか、今まで真逆だと思って生きていたことで知らぬ間に落としてきたものを丸ごと取り戻すような発見だった。
大袈裟ではなく、それからの毎日は景色が違って見えた。
単純すぎて笑ってしまうけれど、そんなところも"根明な自分"という感じがして清々しかった。
失敗したり何か落ち込む出来事があったとき、自分はだめだと必要以上に思いすぎて切り替えが上手くできず負の連鎖に陥ったり、蟠りがとれない、そんな生き方をしていた。とか、なんだかんだ思っていられるうちは余裕あるし守られてるんだ結局、と、自分で自分を嫌っていた。
でももうそんなことはしない。
なぜなら私は根明だから。
(笑)
落ち込むことは落ち込むし、失敗したら反省するけれど、必要以上にし過ぎない。それは自分のためでも世の中のためでもある。そう思ったら、気持ちが楽になった。
自分が根明だと思うことで到達できた、単純な生き方。
それは、根暗でマイナス思考の自分ではどう頑張っても到達できない生き方だった。
今までは自分と同じように根暗だと思っていた周りの人のことも、もしかしたらこの人は本当は根明なのではないかという考えが浮かぶようになった。
自分の周りには本当に根暗な人もいるけれど、案外根明の人も多いような気がした。
ある友人にそれを伝えると、ハッとしていた。
「私根明だった!」と、私と同様単純ハッピー野郎になって、私たちは肩を組んで大爆笑しながら歩いた。
思い込んで損をして、思い込んで救われる人生。
なかなか好きな生き方だ。
…
追伸:自分へ
死にそうな人が山ほどいて、その人のために何ができるだろうと悩んで、手助けをすることはできても直接的には何もできないのに自分は笑顔で過ごしていいのだろうか。と、いつも思っていた。でも、お前は他人の他人だ。他人は君じゃない。人が生きていることも死んでいくことも誰のせいでもない。どんな姿かたちで生まれるか選ぶことはできないし、人生に他にはない苦しみがあったとしても誰のせいでもない。本人、親、他人、誰のせいでもない。
もちろん誰かのために何かできる場合には精一杯自分にできることをする。しなきゃいけない。
それでも何もできない場合に自分が笑顔で生きるのは不謹慎、そういう考えははっきり言って必要ない。できることしかできないのだ。自分は自分を生きることしかできないなら、自分のためにより良い生き方をする。それは他人の苦しみを考えないことではない。自分を大切にして生きやすいように生きる。そうすれば人のために出来ることが増えるかもしれない。それだけのことだ。
明るく生きなさい。