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アメリカ・ルネサンスの入口②「闇の側」~エドガー・アラン・ポー


Eleonora~エレオノーラ(1841)

奇才E.A.ポー

独立宣言の後、19世紀に入ったアメリカは、産業革命と西への国土拡張によって飛躍的な発展を遂げて行きます。

この発展とともにアメリカ独自の文化が育まれ、「アメリカ・ルネサンス」が花開いたのでした。

ラルフ・エマソン(1803ー1882)を筆頭とした「超絶主義」は、従来の思想や宗教を超えた、個人の視野の拡大を唱道しました。
また、その流れを汲む詩人ウォルト・ホイットマン(1819ー1892)は「草の葉」でアメリカの自由を大らかに歌い上げました。⇒アメリカ・ルネサンス「光の側」

一方、このような開放的な志向とは真逆の、闇の世界を描いた作家たちがいました。
ナサニエル・ホーソーン(1804‐1864)、エドガー・アラン・ポー(1809‐1849)、ハーマン・メルヴィル(1819‐1891)の三人が、この側の主な人物です。

中でもポーは、短く数奇な生涯において小説と詩の分野で特異な才能を発揮し、文学史に様々な足跡を残しました。

彼は、推理小説やゴシック風のホラーものなどの大衆小説を、当時急成長していた雑誌媒体を中心に多く発表しました。

その一方で彼は、芸術至上主義的な詩作とその理論によって「象徴詩」の道を拓いたのでした。

転落と破滅の生涯

ポーは、生い立ちからすでに破滅への道筋が引かれていたかのような生涯をたどりました。

孤児として養父に引き取られたポーは、少年時代をロンドンの寄宿学校で過ごしました。
彼の作品の舞台設定やそこに漂う重い空気は、この体験が反映されたものと言われています。

帰国後、彼は大学で優秀な成績を収めながらも大酒と賭博に溺れて退学の処分を受けてしまいます。
その後も放蕩に明け暮れて大きな借金を抱えてしまい、養父にも見捨てられてしまいました。

ジャーナリズムが活発なボルティモアに移り住んだポーは詩や小説の執筆を始め、雑誌に作品を次々と掲載して得た僅かな原稿料によって糊口を凌ぎます。

やがて雑誌の編集も手掛けるようになりますが、酒癖の悪さによるトラブルをたびたび起こし、出版社を転々としました。また、13才の従妹との結婚など醜聞も絶えませんでした。

そして極貧と過度のアルコールに蝕まれ続けた挙句にバーの前の路上で行き倒れ、奈落へ自らを投じるような40年の生涯を閉じたのでした。

小説「天邪鬼」~perversity の誘惑

そのような人生を反映してか、ポーの作品はどれも暗澹とした内容のものばかりです。彼は人間の暗部を深くまで追究し、それを克明にあぶり出した悪夢のような作品を多く残しました。

人が隠し持つ歪んだ願望(perversity)を題材にした1845年の掌編「天邪鬼」はその典型と言えます。

「天邪鬼」では、「絶対にやってはいけない事」を、それが禁じられているからこそあえて行い、自らを破滅に追い込む男の内面がリアルに描写されています。

「天邪鬼」あらすじ
ある男が、ロウソクに毒を仕込むという方法で密室殺人を遂行し、相手の財産を略奪します。完全犯罪を成功させたにもかかわらず、彼はある時「天邪鬼」の発作に襲われ、犯行を自白してしまいます。


「告げ口心臓」(1843)も同じようなモチーフの掌編です。また、「そんな行為は絶対に許されるはずはない」が故に、涙を流しながら愛猫をなぶり殺す「黒猫」(1843)でも、理性や論理では説明できない不可解な心理を、ポーは詳細に描いています。

海外での高評価

ポーの暗い作品は、当時のアメリカでは殆ど売れませんでしたが、海外では高い評価を受けました。

「モルグ街の殺人」などのデュパン探偵ものは推理小説の元祖と言われ、後のドイル(1859‐1930)による「シャーロック・ホームズ」の原型とされています。また、彼の冒険譚はヴェルヌ(1828ー1905)ら後世のSF作家にも影響を与えています。

ドストエフスキー(1821‐1881)も書評にてポーの「空想力」と精緻な描写力を称賛しています。また、「地下生活者の手記」(1864)には先述の perversity が言及されるなど、「天邪鬼」の影響が覗えます。さらに「罪と罰」(1866)などにもポーによる心理描写の手法が反映されています。

日本でも耽美派の谷崎潤一郎や萩原朔太郎ら多くの文学者がポーの感化を受けています。

しかし、ポーが文学史に残した最大の功績は、ボードレール(1821‐1867)を主とするフランスの象徴詩に道標を示したことでした。

「詩と詩論」

ポーは詩において唯美主義を標榜し、「意味」には重きを置かず、音やリズム、トーンによって「純粋な美」に接近することを目的としました。

この姿勢はボードレール以降もマラルメ(1842‐1898)、さらにはヴァレリー(1871‐1945)らの文学観の形成に大きく寄与しました。

ポーの詩には「大鴉」(1845)という代表作があります。
彼は著書「詩と詩論」(1846~50)の中で、この作品が出来上がるまでのステップを詳細に解説しています。

・まず、詩の長さを先に決める→読者が一気に読み切れる約100行を適切な長さとする。

・どのような印象(効果)を読者に与えるべきかを明確にする→「悲哀」こそが美の最適な領域とし、メランコリックなものとする。

・詩の要としてリフレインを駆使すべき。それも単調なものとする。また、それが、各々の連(詩のひとまとまり)を締めくくるものとし、少しずつ形を変えることで広がりを出す。
この語の音は、長い o の響きが適しており、さらに r でのばすことで悲哀
がこもる→Nevermore が「必然的に」採用される。( これが連によってnothing more,for evermoreのように脚韻を踏みながら変転する)

・次に、この Nevermore を使用するための「口実」を検討する。その際に、このような言葉を何度も発すべきは人間ではなく、理性を持たぬ生物とすべき→「鴉」が採用される。

・内容についてさらに、最もメランコリックで美しい題材としては「美人の死」という「自明の答え」が挙げられる。

・こうして、嵐の夜、最愛の恋人(Lenore)に先立たれた男のもとに大鴉がやってきて、空疎な対話が展開する、という骨格が出来上がる。

ポーは、この「ネタ晴らし」の意図を以下のように述べています(概略)。

・・・恐らくは作者の虚栄心が最大の理由なのだろうが、大抵の詩人は、自分が一種の美しい狂気というか、忘我の中で直観的に創作を行ったものと思われたがるのだ(中略)
・・・私は、「大鴉」を例にとり、その構成の一点たりとも偶然や直観によって生まれたものではないことを、つまり、この作品が一歩一歩計画的に進行し、数学のような正確さと厳密さによって完成されたものであることを証明したいのだ。

「ポオ 詩と詩論」(創元推理文庫)

(以下はあくまでも個人的な疑問と興味から)

しかしそもそも、なぜに彼は己の作品の計画性などを「証明」する必要があったのでしょうか?

単に読者に対するサービスだったのでしょうか。
それとも、芸術家気取りの「詩人」たちを黙らせたかったのでしょうか。
または、見当違いな評論や解釈を寄せ付けないための予防線だったのでしょうか。
或いは、「天邪鬼~perversity」からそれを書かざるを得なかったのでしょうか。

怪死の真相もふくめ、ポーにまつわる多くの謎が今日も語り継がれています。
そして、彼独特の世界はその異常さにも関わらず、あるいはその異常さゆえに、今でも多くの読者を魅了し続けているのかも知れません。

The Raven~「大鴉」(1845)
(全訳は、https://www.eureka0313.com/entry/The_Ravenなどにあります)

 Stanza Ⅴ
Deep into that darkness peering, long I stood there wondering, fearing,
Doubting, dreaming dreams no mortal ever dared to dream before;
But the silence was unbroken, and the stillness gave no token,
And the only word there spoken was the whispered word, “Lenore?”
This I whispered, and an echo murmured back the word, “Lenore!”—
Merely this and nothing more.

第5連
闇の奥を覗き込みながら、長い間私はそこに立っていた
戸惑いながら、恐れながら
生者であれば思いもつかない幻想を浮かべながら、訝りながら
しかし、静寂は破られることなく、闇はそこでじっとしていた
発せられた言葉はただひとつのささやき、レノーア!
残響となって返ってきた私のささやき、レノーア!
それだけ ただそれだけだった

2023.10.14
Planet Earth

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福田尚弘
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