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【超短編】セピア

たとえば、私がそのひとのうなじをじっと見つめていたらそのひとがうなじを隠してしまったりとか、そこにある林檎を見つめていたら誰かが拾い上げて買って行ったりとかして、本当は視線というものが目に見えるのかもしれないと思ったりする。それを信じて誰かを、なにかを見つめてみたりする。
窓の外は薄く赤に染まりかけているのに、ここだけ切り取られたようなセピア色の世界。古びた商店街の雑貨屋で、弟の手を引き立ち止まる。店主がいない。
オルゴールが歪んだ音になっていきやがて止まるそのときに、私は一瞬息ができなくなるように感じて、ぎゅっと己の手のひらに爪を食い込ませた。反対の右手に握る弟の手は小さくて柔らかい。
「あ、あれ見て、お姉ちゃん!」
弟が指差したのは、高校生の私よりも高い位置にある棚だった。壁の奥に入り込むように設置されたそこは、ただでさえ不安定な空気のここでも一際目立って異様に見える。私の手が入るか入らないか程度のその空間に、ぽつんと蝋燭が灯っていた。
「蝋燭だね」
「違うよ、魔法の杖なんだよ」
私はいないはずの店主に弟の言葉を聞かれることを危惧して弟の口を塞ぐ。
「そんなものここにないよ」
「魔法の杖だよ。光ってるもん」
目を擦った。珍しく、丁寧に塗ったメイクが崩れるのも構わず目を擦った。そんなはずはないし、そんなもの現実にはないのに。
ぎゅっとまた息が苦しくなるようで、右の手を緩めて弟を逃がした。そういえば私はどうしてこんなところにいるんだろう、雑貨屋より服屋に行きたい。
オルゴール。レトロな服を着たうさぎのぬいぐるみ。明らかに和風の顔立ちなのにドレスを着せられた人形。ロケットペンダント。錆びた薔薇の写真立て。私はセーラー服。
思い立ってスマホを取り出した。手が少し震えた。弟はさっきまで立っていた場所でじっと蝋燭を見つめている。カメラを起動してその蝋燭を撮ろうとした。そして画面下部の白い丸を押した瞬間、火が消えた。
パシャ、と音が響き、灯がスマホの画面だけになる。まだ外は明るく、震える手で写真フォルダを開く。

痛みは傷になって目に見える。弟の腕はきっと傷だらけで、脚も、首も、お腹も、全部心から滲み出た傷痕で、それが私まで蝕んでいくのだ。
写真フォルダには、小さい頃の弟が玩具の魔法の杖を握って映っていた。セーラー服は畳まれて、ママが明日、お隣の家のサナちゃんに渡しに行く。
「姉ちゃん、荷物これだけ?」
様子を見に部屋までやってきた弟がドアのところに立ったままぶっきらぼうに尋ねた。
「これだけよ。大人ってものはお金のことで両手がいっぱいなの。これ以上持てないのよ」
「大人、大人って、来週から大学生ってだけなのに、何言ってるんだよ」
息ができる。やっぱり弟が家を出るときまで一緒に残ればよかった。この家にママと二人になって、喧嘩にでもなって、弟が私みたいに“変な夢”を見ないことを祈るしかない。ちゃんとご飯を食べて、反抗して、よく眠ってくれたら、それでいいのに、それだけで生きていくことを世界は許してくれないのだ。
「でも僕、大人になりたくないな」
弟がぽつりと呟いた。空間に投げ出されたそいつはしばらく浮かんで、やがて私のスーツケースの中に入ったような気がした。
「どうしてよ、なんだかんだ大人も楽しいわよ」
「だってきっと、もう魔法の杖がこの世界にないこと、分かっちゃうんだろ。そんなの寂しいよ」
日曜の昼だというのに弟は学校のジャージを着ている。高校二年生とはこれほどまで大人びた顔をするものだったろうか。
「びっくりした。まだかわいいこと、言うのね」
「姉ちゃんだって一緒に遊んだよ」
顔を背けたまま言う弟。やっぱり恥ずかしいのかしら、わざと少し高い声を出しておどけて言った。
「私はもう、大人だから!」
沈黙。弟が何も返さないのできっとすべったのだろうと思い、スーツケースを持ち上げて玄関に運ぶために立ち上がる。あとは明日に着る服と、スマホだけ置いていればきっと大丈夫。
いつのまにか私の背を追い抜いて高くなってしまった弟。蝋燭を見つけてももう魔法の杖なんて言わないのだろうか。まだドアのところに突っ立って俯いている弟の顔を覗き込み、道を開けてくれるよう頼んだ。
「やっぱり寂しいよ、お姉ちゃん」
その一瞬だけ、弟を見下ろせたような気がした。小さくて柔らかい手を掴んだような気がした。
「大丈夫、ママが死んだら、おいでよ」
物騒なことを言ったが弟は笑ってくれた。どうかパパみたいにママに疲れて家を出てきてくれたらいいのになんて、こっそり願ってしまっている。
ゆるしてね、弟。私だって大人になりたかないんだ。それでもあんたを守ってやらなきゃとか変な使命感に駆られて大人にならざるを得なかったんだ。だからあんな夢をみる、蝋燭が魔法の杖だとか言っちゃう子どもになりたかったんだ。
視線はきっと目に見えている。私と、弟と、魔法の杖を信じていた者同士、きっとそんな魔法がかかっている。弟と絡んだ視線を解かずに三秒ほど見ていた。このままあの雑貨屋に閉じ込められても文句はない。
「姉ちゃん、さっきママが呼んでたよ」
「あんたもしかして、それを伝えるために部屋に来たの?長話しちゃったじゃない」
「いま、行けば、まだ怒られないかもな〜」
「クソガキ!」
スーツケースを放り出して廊下を駆けた。私はクソガキなんて吐いたことを謝ろうに謝れず、また息が苦しくなるのだった。

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