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言語化できなくても
ちょっと前にNetflixで『離婚しようよ』というドラマを観ていた。
主演は松坂桃李さんと仲里依紗さんで、宮藤官九郎さんと大石静さんが数シーンごとに脚本を担当するという面白い企画のドラマだった。
私は宮藤官九郎さんと同郷なこともあって、比較的彼の作品は観ているほうだと思う。今回のも企画も着眼点も面白いと思ったけど観ると中身も面白かった。
「あまちゃん」のセルフオマージュとわかる場面もたくさんあるし、俳優さんの演技も自然でコミカル。
このシーンはどちらの脚本なのかなぁと想像しながら観るのもたのしい。
観ていて、特にハッとしたシーンがある。
作中で錦戸亮さん演じる恭二が
「俺を勝手に言語化するな」
と言うシーン。(言い回しはすこし違うかも)
これはけっこうグサリときた。
一時期「言語化能力」が持て囃されていたと思う。言語化がうまいひとって仕事もできる印象だし、「私のかんじていたモヤモヤを言語化してくれた」みたいに有難がられることも多い気がする。
「もっともらしく言いまとめる」に近いのだと思う。言語化が上手いというのは多くのひとが「もっともらしい」とかんじる言い回しをできるというなのかなと思う。
モヤモヤに答え(らしきもの)がでるとすっきりするし、私も言語化がうまければと思うことがあったから、余計にささるセリフだった。
モヤモヤに向き合ったり流されたりしながら、はたから見ると不器用に生きてる恭二は、そういう生き方がしたいのであって、自分のモヤモヤに対して他人に答えを出してほしいとは思っていない。
言語化して誰かを救えるなんて、文章を書くひとの驕りな気がする。
言語化信者に対する戒めのようなセリフを、脚本を生業にするひとが書いてみせるから凄味がある。どちらのかたの脚本かはわからないけれど。
全然本筋には関係ないことを書きましたが本編もおもしろいのでおすすめです。