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「なんでわかりあえないの?」の「なんで」の答え。

「ちゃんと言ったよね?ほんと、人の話聞いていないんだから」とたまに言われる。
昔は「やばい、ちゃんと聞いていたつもりなのに…」と焦ったり悩んだりしていたけれど、今は「それほどではない」と思っている。自分では。
なぜなら、ほかの人があまり「聞いて」いないことを、ちゃんと「聞いて」いるということが割とあるのだ。

以前セミナーの講師が「だいたいみんな話したことの2割しかわかってない」と言っていた。なんでも、人間、耳に入った情報の2割程度しか記憶として残らないらしい。
単純計算で、10聞いたら2。₁₀C₂だからその組み合わせは45通り。
100聞いたとしたら20。₁₀₀C₂₀だからその組み合わせは5.35983×10²⁰通り。
1000聞いたとしたら200。₁₀₀₀C₂₀₀で6.6172×10²¹⁵通り。
10000聞いたとしたら…もう、やめておこう。
その中からどの組み合わせを選ぶかは、人それぞれ。もちろん、メインストリームというものはあるけれど、完全一致というのは限りなく不可能に近い。
話を聞いていない、のではなく、ただただ注目するポイントが人とずれているだけのことなんじゃないかな?


何を見たか、で生まれるもの。

先日参加した勉強会で、なるほどなぁ、と思うことがあった。
少人数の会で、研修室みたいなところを借りて、実技は会議机の上にエアマットを敷いて行う。机の上って…と、このスタイルにはじめはビビったものの、慣れって怖い。気づけば、エアマットを膨らませるのがとても速い、という、テント泊の時に非常に役立つスキルを手に入れていた。

勉強会が終わって会場を後にするとき、会場スタッフのチェックを受けるのだが、そのとき「研修室の机は通常用途にお使いください。机の上に人が乗るような使い方はお断りしております」と一言。
みんなが「なんでわかったの?」と驚く中、「だって、防犯カメラがあるじゃん」とカメラを指さす私。
なんと、みんなカメラの存在に気づいていなかったのである。
それを知って、みんなは「ずっと視られてたのか?」とちょっと憤慨気味になっていたけれど、いやいや、研修室の入り口にも「防犯カメラ作動中」との張り紙貼ってあるし。

当たり前のことだけれど、私が注意力に長けているという自慢話ではなく。私はその分ほかの人たちに見えているものを見落としている、というだけの話。残念だけど。

はじめからカメラの存在に気づいていた私は、スタッフの方の言葉に「わかってたのに、最後まで見逃してくれるなんて…やさしい」と思った。
一方でカメラに気づかなかった人々の一部は「勝手に見てるなんてひどい」と思う。
同じ空間・場面にいたのに、その人が見たもの/その人に見えたものでこんなにも物事が違って見える。そして、それによって思考も感情も変わっていく。
たまたま、私は初めにカメラを見ていたから前者になって、見ていなかった人は後者になった。

結局、見たいものを見ている。

…たまたま?
たまたまなのだろうか?
人間は自分の「好き」「嫌い」を問わず、普段から気になるもの、興味のあるものに目が行く。

例えば、馴染みの街を歩いていて「FOR RENT」の張り紙が張られた空きテナントを見つける。
その時「あれ?ここ何のお店だったっけ?」と思うことは結構ある。
いつもその前を通り過ぎていたのに、全く覚えていない、というのはよくある。
私は、インド亜大陸の料理が好きだから、歩いていればどんな小さなお店でも目が行く。もし、そのお店が残念なことに閉店することになったら、「FOR RENT」になる前に「閉店のお知らせ」の張り紙に気づくだろう。
常に自分の視野には入っていたはずなのに、そのお店を全く見ていなかった…ということは、つまり興味がなかったということだと思う。

(先に防犯カメラの例を出したけれど、私は常に防犯カメラにおびえるような後ろめたい生活を送っているわけではない、ということを一応明記しておきます)

視野に入ってくるすべての情報を受け取っていたら、一部の人を除いては頭がパンクしてしまうから、人は視覚から入ってくる情報を知らず知らずのうちに選び取っている。
それは、自分が好きなものであったり、逆に嫌いなものだったり。自分にとって都合の良いものだったり、得をするものだったり…
心理学だったら、なんちゃらバイアスとかいうのかもしれない。
これは、視野だけでなく、音やにおい、味や手触り…感覚器に入ってくるすべての源において。

興味があるものを選んで、選んだものから感情や思考が生まれ、その感情と思考から、興味が生まれる。
そのループによって、感情や思考が強化されて行って、個性が育っていく一つの要因なのかも、とか。

「なんでわかりあえないの?」の「なんで」の答え。

同じ空間で同じ時を過ごし、同じものを見ているつもりでも、実は見ているものは違うかもしれない。そうしたら、感情や思考が違ってくるのは当たり前だ。
一緒にいるのに、なんとなくわかりあえなかったり、意見が食い違ったり、イラっとしたり…そんな時は、視点を変えるだけでなく、見るものを変えるのも手かもしれない。
またまた違うものを見てしまう可能性もあるから、分かり合えない可能性もあるけれど、「なんでわかりあえないの?」の「なんで」はわかるかもしれない。

それがわかれば、とりあえずいいんじゃないか。
そんなことを思っている。


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