03:あなたのお名前なんてぇ〜の?(真蛸の章)
花形八郎(はながた・はちろう)は、緊張して足がつりそうになっていた。
それは普段、縁のないオシャレなスパニッシュ・レストランのせいでもフラメンコの生ギターのせいでもない。
愛しい愛しい田子美鶴(たご・みつる)ちゃんからプロポーズの返事をもらえるかどうかの瀬戸際だったからだ。
海山商社に入社して四年目、高嶺の花だった受付嬢の美鶴を口説きに口説いて、ようやくここまで辿り着いた。付き合っているにも関わらず、未だに美鶴を目の前にするとハチローは彼女の愛らしさに見とれてしまう。デレデレしてしまう。それは他の男性社員も同じだったが、ハチローは群を抜いてマメだった。この競争にまずは勝ったのだ。
付き合って半年で慌てるようにプロポーズをしたのが一週間前。
どういう返事をもらえるか考えただけで眠れなくなり、足がつる毎日だった。
予約しておいた高級なスペイン料理店で、緊張はMAXだ。店のミニステージに現れたフラメンコダンサーが、生ギターに合わせて踏むステップもハチローの鼓動に合わせているかのように感じた。
「あ、あのさ……こ、ここのシーフード・パエリアってすごい旨いんだって。ネットで調べたら人気でさぁ……予約すんの大変だったんだよ、これでも。み、美鶴ちゃん……パエリア好きって言ってたじゃん。特にここのシーフードって……」
「アタシ……ハチローくんと結婚……したくない」
オーレっ!
「オーレじゃなくて……えっえっ? 今、なんて……?」
「ハチローくんのとこにお嫁にいきたくない……」
「何で? どうして? 僕のこと嫌いになったの?」
「ううん。そんなんじゃない……」
「じゃあ……じゃあ、何で? 何で僕と結婚したくないって……」
「だって……だって……」
「僕、美鶴ちゃんを絶対に幸せにするからさ。絶対に浮気なんてしないし、仕事も頑張ってもっともっと出世するから……イヤなとこあったら僕、直すからさ……」
「直せないもん……だから、お嫁にいきたくない……」
「直せないって……?」
「だって、だって……アタシ、ハチローくんと結婚したら……」
「結婚したら……?」
「『花形美鶴』に……なっちゃうもん」
「へっ?」
オーレっ!!
ハチローは一瞬、美鶴の言葉の意味が分からなかった。虚を突かれた。そして、それはすぐに脱力に変わった。
「はあぁ? そんなこと?」
「そんなことって言った? ハチローくん、ひどーい! ずっとアタシ悩んでたのに!」
「だって、しょうがないよ。僕の苗字だもん。変えるわけにいかないじゃん」
「男の人ってそういうのにホント無神経だよね。名前って重要なんだよ。運命変わっちゃうんだよ。戸籍も住民票もパスポートも社員証もクレジットカードも……全部全部書き換えなきゃいけないんだよ。病院でも銀行でも『花形美鶴さん』って呼ばれてみんなが見てクスクス笑うんだよ! 結婚して苗字が変わるってすっごい大変なことなんだからね。軽く考えないで!」
今までにない美鶴の剣幕にハチローは縮み上がった。その一方で、昔見た「珍名さん大募集」なるテレビ番組が頭をよぎった。「水田真理」さんや「小田真理」さんに、そのものずばりの「星飛雄馬」さんとか「藤村甲子園」さん……。ああ、足がつってくる!
(自分で面白がれない……よね、普通は……)
「ハチローくんは、結婚してヘンな名前になる女性の気持ちなんか分かんないよっ!」
だからって、結婚をやめるなんて……ハチローはどうしても納得できなかった。自分を嫌いになったワケではないという蜘蛛の糸ほどの理由にすがりついて、咄嗟にハチローは叫んでいた。
「じゃあ……じゃあ、僕が美鶴ちゃん家にお婿に入るよっ! そしたら、美鶴ちゃんは苗字変わらないよ。『花形美鶴』にならなくて済むよ」
途端に美鶴の表情がぱあっと明るくなった。
「ホント? ホント? ハチローくん! うちにお婿に来てくれるの?」
「うん、うん。美鶴ちゃんの望むようにするよ。だって、僕は美鶴ちゃんを愛してるんだ。絶対に美鶴ちゃんと結婚したいんだもん!」
「嬉しいっ! アタシもハチローくん大好きだよ。パパもママもすっごく喜ぶよ」
「ご、ご両親にも言ったの? 僕のこと何て……ご挨拶に行かなきゃ……」
「アタシ、一人っ子だから両親は反対してたの。でも、ハチローくんがお婿に来てくれるなら話は別! 反対しないと思うよ」
「僕、八人きょうだいの末っ子だからうちは全然大丈夫だよ。ホントにホントに結婚してくれるんだね!」
「うん! でも、でも……ハチローくんはいいのね。平気なんだね?」
「えっ? 何が……?」
「だって、だって……ハチローくん、うちにお婿に入ったら……」
「入ったら……?」
「『田子八郎』に……なっちゃうよ」
「あ…………」
オーレっ!
* * * *
「がんこ課長……僕、どうしたらいいんでしょう?」
ハチローは、目の前で宮城の日本酒「墨廼江(すみのえ)」の大吟醸を豪快にかっくらう女性課長の岩田夏子(いわた・なつこ)に縋るような目で訴えた。
上野・御徒町あたりの路地を入った「海月(くらげ)」はカウンター席が六席、テーブルが二席あるだけの小さな居酒屋だ。日本全国からオーナーが仕入れてくる海の幸はどれも旬のもので活きが良い。そのオーナーは「魚食コラムニスト」を名乗る物書きらしく、店にはほとんどいない。だが、小柄でふくよかな女将さんと無口な板前が絶品の料理に仕上げてくれる。日本酒好きにはたまらない隠れ家的な店だった。あまり他人に教えたくないという常連たちだけでいつも満員だった。
「おまえさ、そんな悩みを独身・一人暮らしのオレに相談するってか!」
「だって、課長だって一応女性じゃないすか……」
「一応、言うな!」
岩田夏子……通称・がんこ課長の言葉遣いは女性としてはサイテーだ。口が悪いことこの上ない。美人なのにこれっぽっちも「女性」を感じられない。でも、仕事はめちゃくちゃできるし、何故か上からも可愛がられ、下からも慕われる。特に他の女性社員からは、絶大な人気を得ている。結婚には興味がないらしいという話だった。
「どうしたらも何も、結婚したいんだったらおまえが『たこハチロー』になるしかねーじゃん」
「『たこ』じゃありませんっ! 『たご』ですってば!」
「おまえもやっと美鶴嬢の今までの苦労が分かったか。美鶴嬢は今までずっとそうやって、全部訂正してきたんだぞ」
「そ、それは……」
「苗字が変わる女性の気持ちが分かっただろう。分かったら観念して、おとなしく『たこハチロー』になるんだな」
「課長だって名前変わったことないクセに……」
「今の言葉は聞かなかったことにしてやる。明日の朝礼3分間スピーチ、お前に決定な!」
「うわ! めちゃくちゃ根に持った! ひでー仕返しじゃないすか!」
「それよりさ、何を躊躇してんだ? 美鶴嬢と結婚したいんだろ?」
「……はい。そりゃ、もう」
「だったら、その名前と一生付き合うんだろ。嫌がったら他人に伝わるぞ、そういうのは。せめて、面白がったり楽しんだりできないとダメだ」
がんこ課長は真面目な表情になり、目の前の「タコの唐揚げ」をパクッと口に入れた。
「だいたい、その嫌がり方は田子家に……いや、元プロボクサーで俳優、そして天才的なコメディアンである『たこ八郎』に失礼だぞ。いやいや、もう海にいる『真鮹』に失礼千万!」
「『真鮹』に敬意を払えっていうんですか……」
「その通り! 世間では『このタコ!』なんていうセリフがあるが、真鮹はバカにしたもんじゃない。かなり優れた食材だぞ」
「あんまり注目したことないっす。『たこ焼き』ぐらいで……」
「『鮹』を食べるのは日本以外ではイタリア、ギリシャ、スペインぐらいだな」
「あ、こないだスペイン料理のレストランでシーフード・パエリア食べ損なった……フラメンコがすごくて……」
「聞けや! 鮹はタウリンという成分が豊富で、血圧の上昇を抑えたり、コレステロールとか血糖値を下げる働きがあるんだぞ。おまえはまだ若いからピンとこないかもしれんが、心臓や肝臓の機能強化……動脈硬化や脳卒中を予防するってことなんだ。亜鉛も多量に含まれてるぞ」
「ふーん」
「ふーんじゃねえよ。それに高たんぱく・低カロリーだからダイエット向きともいえる。ビタミンEが老化防止にも働くから女性にはうってつけ食材だな」
「あっ、ホントすか? 美鶴ちゃんに教えてあげようっと〜」
「おまえら、ホントにバカップルな! 会社で評判だぞ」
「何か……言いました?」
「それより、さっき言ったタウリンはホントにすごいぞ。魚肉の二倍以上だ。目や脳の正常な発達に有効で、疲労回復機能も優れてるんだ。おまえ、よく足がつるだろ?」
「あ、そうなんすよ。こないだも肝心なところでつっちゃって……」
「鮹を食べろ! おまえ、絶対に鮹不足だ」
「鮹不足って聞いたことないっすよぉ〜。鮹なのに不足ってヘンなの〜」
「二日酔い防止にも効果あるんだぞ。さぁ、食べろ!」
「乱暴すぎますよ、課長。やめてくださいよ〜。自分の意志で食べますってば〜」
がんこ課長にムリヤリ「タコの唐揚げ」を口に入れられ、ハチローは抵抗した。
そこに、女将が割って入り、ニッコリと微笑みながら二人の前に茶碗を置いた。
「はい、召し上がれ」
女将が持ってきたのは、炊きたての「たこ飯」……。
ほんのりとピンク色で、醤油と鮹を炊いた時の香りが程よく鼻をくすぐっている。
「おおっ、旨そう!」
「わぁ、いい匂い〜」
「おかわり、あるからね」
ご馳走が出た貧乏家族の食卓のように、姉・がんこ課長と弟・ハチローは大はしゃぎした。二人ともすぐさま「たこ飯」をはむはむとかっ食らう。
「ああ、生姜もきいてる。いいアクセントになってて旨い!」
「鮹の歯ごたえも最高っすよ〜!」
「ちょっとハマりそうだなぁ。うちでも作ってみようかな。女将さん、『たこ飯』って難しい?」
がんこ課長の問いかけに、カウンター越しに返事が返ってきた。
「そんなことないわよ。普通の炊飯器でできるから」
女将の説明にがんこ課長は慌ててメモをとる。
米2カップを研ぎ、ざるにあけて、約30分ほど水気をきる。
真鮹(ゆで)約200gを厚さ3ミリ程度のそぎ切りにし、醤油大さじ1、酒大さじ2、みりん大さじ1+1/2、砂糖小さじ1と千切りにした生姜(1片ぐらい)を鍋で2〜3分煮立たせる。
炊飯器に米と鮹の煮汁を入れる。その後に水を足して通常の水加減に。
最後に鮹を加えて、通常通りに炊くと出来上がり。
「うわ、簡単! あさつきも合ってるな〜」
「僕も美鶴ちゃんに作ってもらおう!」
「甘いっ! 自分で作れよっ!」
「ちぇっ。厳しいなぁ。名前が『田子ハチロー』に変わる僕に少しは同情してくださいよぉ〜」
「まだ、言うか。あれだけ教えてやって、こんなに旨い鮹を食べても、ちっとも『鮹』に敬意を払ってないぞ!」
「あっ、そうだ! そういえば、取引先の担当者の女性……最近、結婚されたんですよ」
「おまえ……ホントにひとの話聞く気ないのな……相談してたのおまえだぞ」
「それでね、その女性、社内では旧姓のまま仕事してるんですよ。名刺も元の苗字のままだったし……」
「ああ、あの会社はそこらへん自由だから選べるんじゃなかったかな」
「僕も社内では元の『花形』のままで仕事しようっと。名刺も今のまんまで……」
「おまえ、知らねーの?」
「へっ?」
「海山商社は通称使用は認められないぞ。戸籍、住民票での名前しか使えないんだ。ほら、うちの会社、そういうとこ古いから……結婚した女性社員はみんな全部名義変更してるだろ?」
「あっ……ああっ! そ、そういえば!」
「これから、よろしくな『田子ハチロー』くん! 取引先にもちゃんと挨拶するんだぞ。そして、散々イジられろっ!」
「ああああああ……やっぱ、イヤだあぁぁぁぁ!」
「ふん、このタコがっ!」
(真蛸の章 ◆ 終)
イラスト:布施月子(日本画アーティスト)
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