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読書記録|『御馳走帖』

百閒先生には、いろいろなこだわりがある。
たとえば毎日の食事はこんな感じ。

朝はまず、おめざに果物を一、二種類と葡萄酒。

そのあと、郵便に目を通しながら朝ごはん。
この朝ごはんについて書いてあるところが好き。
つぎはどの形を食べようかな、と選り分けながらビスケットをかじる姿、思わず頬がゆるんでしまう。

郵便や新聞を見終る前に、ビスケツトを嚙つて牛乳を飲む。これで朝飯を終るのである。ビスケツトは英字の形をした余りあまくないのを常用してゐる。アイやエルは劃が少いので口に入れても歯ごたへがない。ビイやジイは大概腹の穴が潰れて一塊りになつてゐるから口の中でもそもそする。さう云ふ色色の形を指債で選り分けて摘んで食べる。

「百鬼園日暦」

お昼はお蕎麦。
盛りかけ一つずつを半分食べる。
夏は早起きなので、お腹がへるから盛り二つを一つ半くらい。教師時代からの習慣だ。

そして、ようやくいちばんの楽しみ、晩のお膳。
お酒も昼間には決して飲まず、晩になってから思いきり飲む。

午後ずつと仕事をしてゐても、私は間食は決してしない。ただひたすらに、夕食を楽しみにしてゐる。一日に一ぺんしかお膳の前に坐らないのだから、毎日山海の珍具佳肴を要求する。又必ず五時に始まらないと騒ぎ立てる。その時刻に人が来ると情けない気がする。

「百鬼園日暦」

外でごはんを食べたりもするけれど、大体毎日きまってこの流れ。いくら豪勢な御馳走のでる会食でも、あれこれむつかしい話をしながらのお膳はおことわりで、"食ひたくない物を食ふよりは、食ひたい物を食はずにゐる方がらくだ"と空腹を我慢する方をえらぶ。

百閒先生にとっての御馳走、それは、決してとくべつなものばかりではない。なんだったら、さしておいしくないものを好んで食べることさえある。たとえば、お昼に食べるお蕎麦。“うまくもまづくもない”それを、飽きることなく食べつづける。変に違いがあってはだめで、いつも一定の味であることが重要なのだ。単に味がおいしいというのではなくて、好きなときに好きなように食べるという、そのことが御馳走なのかもしれない。

その気持ちはなんとなくわかる気がする。
私の場合、朝はごはんに味噌汁、昼はお弁当。お弁当の中身は毎日そう大して変わらない。
夜は控えめの方がいいというけれど、そうはいってもやっぱり夜がいちばん時間の制約もないし落ち着いて食べられるから、晩ごはんをいちばんしっかり食べる。遅く帰ってきても、やっぱりお米と主菜副菜、ちゃんとそろえて食べたい。
そうして晩ごはんを食べられれば満足で、朝、昼は毎回同じものだってべつに構わない。お昼に何を買おうかと考えるほうが面倒なくらいだ。
食べられたらなんでもいいと思っているわけではないけれど、今日は何食べよう、と考えつづけるのはちょっとつかれる。おいしく食べるためには、考える隙もなくお腹におさまるような、変わり映えしないごはんがあることもまた必要なのかも。だから、百閒先生のスタイルは結構好きなのだ。


ちなみにこの中公文庫から出ている『御馳走帖』は、旧かな遣いで書かれているのも好きなところ。新かなに統一されてからも、あえて旧かなを使いつづけた百閒先生。新かなで書かれているのも読むけれど、比べてみると旧かなの方が面白さも格段に増す気がする。整然とした新かなとはちがう、のらりくらりとした掴みきれなさ、うねりのようなものが、百閒ワールドを作り上げている。

『御馳走帖』においては、その旧かなであらわされる食べ物がまたおいしそうなこと。

辺りに何とも云はれない、うまさうなにほひがした。
「かかん、これん、一番うまいなう」とその子が云つた。
何だらうと思つて、外からお膳の上を覗いて見ると、油揚の焼いたのを食つてゐた。それなり家へ馳け戻つて、私も油揚を焼いて貰つて晩飯を食べた。
じゆん、じゆん、じゆんと焼けて、まだ煙の出てゐるのをお皿に移して、すぐに醤油をかけると、ばりばりと跳ねる。

「油揚」

・・・こんなの堪らなくおいしそうじゃないか。

岡山行きの旅のおともに『御馳走帖』を持って行ったのだけれど、行きの飛行機で読んでいたら、私も家へ駆け戻りたくなってたいへん困った。


『御馳走帖』内田百閒(中公文庫)



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