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その糸を切られたとき、わたしは知らせることのできないあなたを想うのかもしれない


 いつの日か、命が尽きる日がやってくる。そう思い始めたのは、いつからだっただろう。

 「死」というものをはじめて身近なものとしてきちんと理解したのは、小学校三年生の頃だ。秋には飼っていたハムスターが、三月には同居していた祖父が死んだ。どちらも急に具合が悪くなって、こちらが心の準備をする前に、あっけなく死んでしまった。「死」を怖いと思ったり、不安に思ったりする時間もなかった。

 突然、今までそこにあったものが消えた。それは、隣や目の前を歩いていた人が、突然落とし穴にでも落ちてしまって、目の前から姿が見えなくなったような唐突さだった。

 わたしは、どう悲しめばいいのかわからず、ハムスターのときも、祖父のときも、ただただぼんやりとしていた。二歳年下の妹がわんわん泣いている姿を見つめながら、「ああ、こういうときには泣くことがふつうなのか」と思っていたような記憶がある。


 その後も、覚悟をしていなかった死を何度か経験している。闘病生活を送るような、ゆるやかな死ではなく、突然糸を切られてしまったような予想外の死。
 知らせを受けるたび、背中を押されて暗がりに落とされるような気持ちになった。歩いていて突然姿が見えなくなったのは、その人が落ちたわけではなく、わたしが暗闇に突き落とされたからなのかもしれない。

 そういうことが続いたせいか、わたしは、自分もいつか、何かの拍子であっけなく死ぬのではないかと思っている。
 それは事故かもしれないし、自分自身の衝動が原因かもしれない。どちらにせよ、わたしはなぜだか、自分には病を告げられて闘病生活を送ることになる死ではなく、突然ぶつんと命の糸を切られる、そんな死がやってくるのではないかと夢想しているのだ。

 そして、そのときがきたら甘んじて受け入れたいと思っている。ジタバタせず、静かに、淡々と、「ああ、ここでわたしの命は終わるのだ」と受け入れたい。そうして、ふっと静かに消えてなくなりたいと思う。


 ただ、最近思うことがある。それは、わたしがいつか死んだとき、その死を知らないまま生きていく人たちが、数多く存在するのだろうということだ。

 今のわたしには、わたししか知りえない交友関係がある。親しくしている人たちはもちろん、仕事上のつきあいも、わたし以外、家族も把握はしていない。SNSが発達し、ネット上のみで仕事が完結することもある現代では、何も珍しいことではないだろう。


 そんな状態の中、もしも突然糸をぶちん、とやられてしまったら、わたしの死は宙ぶらりんになったまま、その人たちには届かないままになるのかもしれない。
 そうして、「あれ、そういえば卯岡っていう人、最近Twitterに現れないな」とか、「noteの更新がないな」という風に思われるのかもしれない。(いや、どうだろう。案外、そのことにすら気づかれない可能性も高いような気もする)

 親しくしているだけの人たちならまだいい。
 仕事上の人は、どうなるのだろう。単発だけでお付き合いのある人たちならいざ知らず、継続的に仕事をいただいている相手に対して突然音信不通になることは、さすがにちょっとしのびない。
 ではどうすればいいのか。定期的に死後のことを記したノートでも更新しておけばいいのだろうか。連絡手段も添えて。

 そもそも、すべてわたしの考えすぎで、突然ひとりの人間が消えたところで「なんだよ音信不通になりやがって」と吐き捨てられるだけで、淡々と日常は過ぎていくのかもしれない。

 そんなことをつらつらと考えるわたしは、まだ三十歳なのだけれど。でも、いつだって「死」はすぐ隣で口をぱかんと開けて待っている、そんな気がするのだ。

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卯岡若菜
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