名のある日記帳から、名のないnoteへ
「こんなことを考えています」と書きはじめたのは、小学校一年生のこと。
本来は日記である「あのね帳」に、途中から「しぜんはたいせつ、しぜんをまもろう」と連載スタイルで毎日書き綴ったのが最初だ。
読書感想文も、感想というよりも小論文のようで、子どもらしさはあまりなかったかもしれない。幸いだったのは、「意見します」といった可愛げのないスタンスの文章も、先生方がおもしろがって受け入れてくれていたことだろう。
出る杭を出たままにしてくれた。(出ていたかはわからないけれど、小生意気な子どもではあったと思う)親からは「ああ言えばこう言う」と苦言を呈されることが多かった分、尚更幸いだった。
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中学生に上がる前くらいからは、誰にも見せない日記を書きはじめた。伝記を読んで知ったアンネの日記に影響されたのだ。彼女が「キティ」と名付けていたように、わたしも日記帳に名前をつけて、語りかけるかのように書いていた。今でも何冊もの日記が残されていて、これはちょっと死ぬ前に処分しておきたいものナンバーワンといってもいい。
高校生からは、紙ではなくパソコンへ移行する。筆名を使い、無料ブログに日記を書いていた。これも、「最近はこんなことを考えている」など、できごとよりも思考を書き記すものだ。ネットの海にさらけ出されてはいるわけだけれど、誰かに読まれるために書いていたわけではなかった。ただただ書きたかった。書かないと脳がパンクしてしまう、そんな感覚だった。
noteも同じだ。読んでもらうための文章を書くことを仕事にしているのだから、読み手を意識して書く鍛錬の場にする選択もできるけれど、わたしはやっぱり「ただ、書いている」だけ。
こんなことがあった。こんな本を読んだ。こんな映画を観た。……そして、その結果あれこれ考えてキャパシティがギリギリになってきたから、外付けハードディスクにデータを移しとこ、みたいな。
だから、読まれたら嬉しいけれど、読まれるために書いてはいない。自己満足の産物だ。セラピーでもあるのだろう。ここ最近の更新が頻繁なことからも、それはわかる。書くことで守られる部分が、わたしには確実にあるのだ。
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読まれるものを意識して書いているわけではないのだけれど、その一方で好き勝手書いたわたしの文章は、読み手に「わたし、こんな人です」を伝えられる材料でもある。何なら、オフラインで対面するよりも多くのことを知られてしまうだろう。良くも悪くも、ただただ書きまくりつづけてきたから。
お仕事のご縁があった方のうち、これまで何人かに「noteを読みました」と言ってもらったことがある。依頼された仕事内容はエッセイではないし、noteに書いているような文章が直接依頼の参考になったわけではないだろうと思うのだけれど。
でも、読んでもらったうえで「お願いします」と言ってもらえるのは、やっぱりどこかうれしい。先日はnoteのアドレスを添付したことで、新規の仕事をいただけた。わざわざ読んでもらえたことを、うれしく思う。
かといって、読まれようが読まれなかろうが、これまでと変わらず書くのだけれどね。ネットという大海に、ぽんぽん手紙を詰めた小瓶を流している気分。誰かに拾い上げてもらえるのは、幸運でうれしいことだ。