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新春小説 「杜の声」

僕は基本、連載形式の中篇小説を主流にして書いているのですが、noteでフォローし合っている広島の作家さんのゆにおさんの新作が良くて、ちょっと単発の作品を書いてみたくなりました。

作風もテーマも全く異なる作家さんなのですが、共に広島、名古屋と各々の地元を舞台としたドメスティックな作品を書いていまして、今回ゆにおさんの「大河町フォークロア」への返歌みたいな小説を書きたくなりました(ただしボリュームはもっと少ないです)

これから紹介する作品に出てくる城山八幡宮は、現在連載中の「トリプティック」第4話でも取り上げた、僕の育った地元の神社です。
https://note.com/untireal/n/n8efc1bd4c4cb



「杜の声」

正月ぐらいしかゆっくり休めない敦彦は、いつも仕事で通う広小路通りから見える旧昭和塾堂、今は愛知学院大学の所有の尖塔をゆっくり見たくなって、30年ぶりぐらいに末盛を訪れることにした。

15年ほど前、落雷によりクラシカルな避雷針が倒れてしまい、数年放置されていたことがあった。
幸いにしてかなりあとに復旧されたのだが、おそらく特注になるその避雷針を作れる業者が現在ではほとんど存在しなかったのではと敦彦は思った。
それ以来、生まれ育った街のメモリアルな建物の行く末が心配になり、失くなってしまう前に記憶に焼き付けたいと考えていたのだ。

昭和塾堂は昭和3年に、城山八幡宮の敷地を借りて愛知県が社会教育施設として建設したもので、黒川紀章の父で愛知県営繕科の黒川巳喜が意匠に携わったことで知られている。
日本の建築に西洋の伝統建築を取り入れた、和洋折衷のゴシックエレクティズムが他に類を見ない建物だ。

末盛は、この場所から南は平坦な地形で、北側から連なる丘陵地からせり出した先端になる。
小高い丘はかつて名古屋の西を望む要所であり、織田信長の父の信秀は三河地方との境界線を睨むため、本拠地を西の那古屋城から、東のこの末盛に移転した。
その末盛城の跡地が、現在の城山八幡宮である。

敦彦がこの神社を知ったのは小学校に上がってからだった。
郷土の歴史を学ぶ時に、徒歩で地元のゆかりの地を廻る。
半分遠足のような楽しみの中に、城山八幡宮と昭和塾堂はあった。

南から入る城山八幡宮は、大鳥居をくぐると直ぐに橋が架かっている。
末盛城の空堀の遺稿が現在でも残っているのだ。
八幡宮の敷地を、それはもちろんかつての末盛城だったのだが、西から弧を描くように東へ空堀が囲んでいる。
空堀を渡り、石階段を上がると正面に八幡宮の敷地、向かって左になる西側に昭和塾堂が現れる。
敦彦はこの辺りに住む同級生と親しくなり、空堀でよく遊んだ。
当時昭和塾堂は愛知学院大学の施設として使われていたため、小学生の自分が近づくにはハードルが高かった。
大人になった今、ゆっくりと見れるのだろうか。

初詣は避けたかったので、ちょっとは落ち着く3日に末盛を訪れることにした。
城山八幡宮の前には公園と葬儀会館があり、周りにはコインパーキングがいくつかある。
駐車には困らず済む訳だ。

無神論者の敦彦には、神社を参るという気持ちは存在しない。
否定はしないが、自分が信じていないものに手を合わす思いやりには欠けている。
その居心地の悪さが嫌で、人生で一度も初詣をしたことがないのだ。

参りはしないが、まあ、横目で流しておこう。

車をコインパーキングに入れ、懐かしいというには月日が遠くなりすぎたかつての遊び場に、ちょっと感傷的になりながら敦彦は足を踏み入れた。
ちらほらと初詣らしき人影が見えるが、割と大きな神社といえあくまで地元のそれなので、元旦以降は参拝客も少なめだ。

辿ってみたところで特別でもない幼い思い出を、それでも思い返したくなって敦彦は橋の手前で空堀をしばらく眺めていた。

その時、何か声のようなものを感じた。

感じた気がしただけで、声が聞こえた訳ではない。
でもその何かは、微かに敦彦の裡の忘れていた匣に触れたような、どうにも言い難いざわざわした気持ちを呼んだ。

敦彦は、それこそおよそ30年ぶりに空堀に降りて行った。

足元に敷き詰められた落葉はあの時のままだ。
僕らは学校の授業が終わると神社に繰り出して、この落葉の上を駆けずり回ったはずだ。
ある時までは…

敦彦は、何故か空堀を東に登りはじめた。

南から東を経て北に延びていく空堀は、法面に沿って徐々に急な登り勾配になっていく。
そして遊び場になっているのは平坦で幅が広い南側だけで、東は落葉に埋もれた小さな渓谷だ。
そこは立ち入り禁止になっていたはず。

敦彦は、もう昭和塾堂のことなど忘れていた。

声のような何かは、鎮守の杜が立てる微かなざわめきだったのかもしれない。
その声が呼んだのは、それは記憶なのだろうか。

落葉は大きな音を立てて、敦彦の歩みを囃し立てた。
それでも敦彦は東に蛇行しながら昇る空堀の底で、おぼろげに目的を思い描きはじめていた。

しばらく歩くと、空堀の切通の側面に小さな洞窟の入り口があった。
知らなければやり過ごしてしまいそうなそれは、板で曖昧に塞がれて崩れ落ちそうにも見える。

あの時のままだ…

それはかつての防空壕の跡だった。
戦争の頃、この小さな穴に人々が逃げ込んだのかどうかは敦彦は知らない。
自分が小学校の頃、そこは当然封鎖されていて、危険だから入ってはいけないと言われていたのだ。


微かに、聞こえた。


30年前のある日、母は自分を連れて東山動物園に行った。
母が自分を遊びに連れ出したのはそれが初めてで、敦彦は嬉しくて飛び上がりそうだった。

動物園で動物たちを見て、母が作った弁当を一緒に食べた。
楽しい一日が終わり、母と一緒に帰るはずだった。

しかし、母はなぜかこの神社に来た。
母に連れられて、空堀の外周の道をなぜか何度も行き来した。
そのうち母は防空壕の向かえ辺りでしゃがんで、しくしく泣き出した。

敦彦は悲しくなって、ねぇ、お母さんどうして泣くのと聞いた。
母は涙を拭って「ごめんね、何でもないの」と敦彦を抱き締め、その後一緒に家に帰った。


敦彦の目から泪が滲んだ。


そんなことがあって後、父が家を出た。
幼い敦彦には理由はわからず、その日から二人は母子家庭になった。

その一年後、母が交通事故で命を落とした。

敦彦は別れた父に引き取られ、今こうしてここにいる。
亡くなった母も、自分を引き取った父も、二人の間に何があったのか口にすることはなかった。
そして敦彦も、それを知るのが怖くて、訊ねることはできなかったのだ。

あの日母は、自分と一緒に死ぬ場所を探していたんじゃないのか…


敦彦は気が付くと、真っ暗な闇の中にいた。
小さく狭い穴蔵のようなその場所で、微かな声を聞いた。

か細い泣き声のように懐かしい…

ああ、自分は、母とここで終わるはずだったのかも…

杜の中、もう自分はどこにいるのかわかりはしない。



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