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『キャッチャー・イン・ザ・ライ』との遅き出会い #334

先日、NHKの『完全なる問題作』という番組で『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(以後『キャッチャー』)が特集されていた。この本は『ライ麦畑でつかまえて』としても知られるJ・D・サリンジャーによる青春小説で、主人公ホールデンが高校を退学になった後にニューヨークで過ごすクリスマスの数日間を描いている。

その後、たまたま観た『天気の子』にも村上春樹訳の『キャッチャー』が登場した。「同じ日に同じ本に2度も出会うなんて、なんという偶然だろう」と思い、『キャッチャー』を読むことにした。


子どもでもないし、大人でもない。

『キャッチャー』は主人公のホールデンが一人称視点で語るという形式で書かれている。にもかかわらず、後述のように彼は何にでも「インチキphony」と難癖をつけるいわゆる「信頼できない語り手」だ。

最初は先生や友人に恵まれない学校生活を送っていることに同情しながら読み進めるのだが、彼が出会う全ての人に文句を言っていくため、「これはホールデン自身の認知の歪みゆえなのでは?」と気づく仕掛けになっている。

彼は周囲の人間が「インチキ」であるという他責思考で考えるが、実は自分自身の言動にも問題を抱えている。たとえば、その場に合わせた嘘や、相手をからかう冗談ばかりで、本音を話さない。

また、自分が正しくて社会が悪い。子供は純粋で大人は汚い。こうしたシンプルな二項対立でしか考えられないことも幼い印象を読者に抱かせる。たとえば、妹のフィービーの学校や美術館で「ファック・ユー」の落書きを見つけた時に過剰な嫌悪感を示すし、妹や街中で出会う子どもに対して純粋で無垢な存在であるという幻想を抱いている。

一方で、大人を信用していないと言いながら、昔お世話になった先生の自宅に泊まりにいったり、妹の通う学校の先生に大事な手紙の伝言を頼んだりするのも、大人を汚い存在だと思いながらも大人を頼るしかないという幼さを感じさせる。

大人になるとは?

その場のノリに合わせて会話をするホールデンだが、この話で彼の本心が唯一語られるのは、妹に「将来何になりたいか」と尋ねられた時だろう。父のような弁護士にはなりたくないと言った後に語るなりたいものこそがタイトルにもなっている「ライ麦畑のキャッチャーキャッチャー・イン・ザ・ライ」だ。少し長いがそのまま引用する。

「でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕は思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕が何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。たしかにかなりへんてこだとは思うけど、僕が心からなりたいと思うのはそれくらいだよ。かなりへんてこだとはわかっているんだけどね」

293ページ

このように「キャッチャーになりたい」と妹に話すが、きっとホールデン自身が誰かに手を差し伸べられたかったのだとも思う。ちなみに、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を直訳すれば「ライ麦畑でつかまえる人」だが、「ライ麦畑でつかまえて」という邦題は、つかまえる側にも「つかまえてもらいたい」という願望にも読めるから秀逸だ(これを意図した日本語タイトルかは不明だが)。

「大人は汚い。でも、助けてくれるのは大人しかいない」。そんな矛盾した思いが認知的不協和として彼を苦しめていた。そんな彼に最後に手を差し伸べている(ように見える)のが、ホールデンの英語の先生だったミスタ・アントリーニだ。

先生は「私が見るに、君はある種の、きわめておぞましい落下傾向にはまりこんじゃっているみたいだ」と言って親身にアドバイスをする。まるで崖から落ちそうなホールデンをつかまえようとしているかのようだ。先生のアドバイスの内容は、先生がホールデンに手渡した紙に書かれた精神分析医ヴィルヘルム・シュテーケルの以下の言葉に象徴されている。

未熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ。

しかし、ホールデンは先生すらも信じることができずに先生の元を離れる。何もかもが嫌になったホールデンは西部に家出しようと決意するのだが、妹のフィービーに「ついていきたい」と言われてしまったことで家出を諦める。

こうしてホールデンとフィービーはセントラルパークに向かう。そこで見つけた回転木馬に妹のフィービーが乗っているのを見ながらの独白は、なんだかホールデンに似つかわしくない。けれど、そこに彼の成熟の兆しが感じられる気がする。

もし子どもたちが金色の輪っかをつかみたいと思うのなら、好きにさせておかなくちゃいけないんだ。余計なことは言わずにね。落ちたら落ちたときのことじゃないか。あれこれそばから口を出しちゃいけない。

357-358ページ

子どもが落ちそうになったらつかまえると言っていたのに、一転してこの場面では「落ちたら落ちたときのことじゃないか」と言う。これまでのように場当たり的な感情にまかせて語っているだけなのかもしれないが、きっと子どもを見る大人の視点が理解できるようになり、「自分は大人から見捨てられているわけではない」と思えたのだろう。

そして、最後は精神分析医の治療を受けていることや秋から新たに学校に行くことなどが語られて本書は終わり、特に劇的な結末を迎えるわけではない。けれど、西部のどこかで聾唖者のふりをして過ごしながら意味のない愚かしい会話をせずに人生を終えるという「高貴なる死」を選ぶことなく、まずは学生として「卑しく生きること」を選んだということなのであれば、彼が「成熟した」ということを表現する見事な終わり方だと思う。


『天気の子』とか『エヴァンゲリオン』とか

冒頭でも述べたように、私が『キャッチャー』を読んでみようと思ったのは『天気の子』で登場したからだった。物語の中で既存の物語が引用されるということは何かしらのアナロジーが見られるはずだ。たとえば、主人公はわけもなく地元が嫌になり、東京に家出する。東京の全てが嫌に見える。落ちる陽菜を「キャッチ」する。最後のシーンで雨が降るなど、いくつかの共通した描写もある。

ところで、私が『天気の子』を観て連想したのは『エヴァンゲリオン・破』だった。なぜなら、愛する人か世界のどちらを選ぶのかという主人公の決断とその結果が似ているからだ。『エヴァンゲリオン・破』では、綾波レイを救うことでサード・インパクトが起こり、『エヴァンゲリオン・Q』では14年後の荒廃した世界が描かれる。『天気の子』でも同様の展開で、陽菜が人柱とならない未来を選んだ3年後の東京は降り続く雨によって水没している。

『天気の子』からエヴァを連想した後だと、『キャッチャー』は『エヴァンゲリオン・序』に相当するようにも思えてくる。シンジが家出をして、第三新東京市の夜を彷徨うシーンがあるが、まさにホールデンがニューヨークの夜を彷徨う様子と重なる。

アニメ版エヴァや旧劇場版では、シンジを救う大人がいなかった。しかし、『シン・エヴァ』では14年が経っていることで、周囲の人間が大人になっていた。こうして『キャッチャー』や『天気の子』では描かれなかった「大人が子供を救う」というその後の物語が描かれているように思う。

第三村でシンジが失語症になっていた様子が、ホールデンが聾唖者に憧れていたこととも重なる。しかし、他者とのコミュニケーションを避けても本質的な解決にはならない。傷ついてでもコミュニケーションを取ろうとすることこそが大人になる覚悟なんだと思う。

中学生や高校生の頃に誰もが感じるであろう社会の不合理さや大人の汚さ。そんなテーマを扱う作品ならば「子供らしさを忘れるな」というメッセージにしたくなるところを、「酸いも甘いも嚙み分けた大人になるのも悪くない」とするのが『シン・エヴァ』らしさを生んでいる。だからこそ、『シン・エヴァ』はエヴァの卒業式とも評される作品になったのだろう。

「わき道!」と怒鳴られそうなので、この辺りで他の作品の話は終わりにする。


ニューヨークに残るフィクション

私はニューヨークに留学していたので、いくつかのシーンで過去の思い出が蘇る。グランドセントラル駅、ブロードウェイ、セントラルパーク、自然史博物館、メトロポリタン美術館。そんな固有名詞と出会う度に小説の中の情景が自分自身の記憶によって補完されていく。

でも、私は『キャッチャー』のクライマックスで登場するセントラルパークの動物園と回転木馬にはなぜか行ったことがなかった。私にとって、『キャッチャー』におけるクライマックスは実際のニューヨークでの出来事としてではなく、あくまでも小説の中のフィクションとして感じられる。それが惜しいような気もするが、むしろフィクションとして終わりを迎える方が小説らしくて美しいようにも思う。

留学前に『キャッチャー』を読んでいたら、ドはまりしてしまっていた気がする。私も大人や社会を憎むような考え方をするタイプだったから、もしも中高生の頃に読んでいたら「ホールデンよ、よくぞ言ってくれた」と共感していただろうし、ニューヨークに留学するとなれば真っ先に聖地巡礼していたはずだ。

しかし、留学後の私が読んでみた感想は「ホールデン君、そんな時期もあるさ」だった。セントラルパークの動物園と回転木馬を見逃したことを後悔することもなかった。そんな自分はティーンな感覚を失ってしまっているのかもしれない。でも、それが「インチキ」な大人になってしまったということではなく、「キャッチャー」として誰かに手を差し伸べられる大人になっているということだと思いたい。あれこれそばから口を出したりはしないけれど、聞こえないふりだってしないつもりだ。

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