「反逆の神話」を読む #110
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今回は「反逆の神話」を読んだ感想をまとめます。資本主義とカウンターカルチャーの関係性を説明している名著ということで、読んでみました。
あくまでも個人の感想であり、要約や解説ではないことをご了承の上お読みいただければ幸いです。
序章
以下の一文に、この本の主張は集約されています。
カウンターカルチャー政治は、革命の教義どころではなく、過去四〇年間にわたって消費資本主義の主な原動力となってきたのだ。
カウンターカルチャーは資本主義を打倒すべく数十年に渡って活動が続いてきたにもかかわらず、資本主義が存続している理由を資本主義の構造から説明します。
カウンターカルチャーの価値観と資本主義経済システムの機能的要件はまったく対立することはなかった。
すべてを統べる単一の包括的なシステムなどない。文化は妨害されえない。妨害すべき「単一文化」や「単一システム」なんてものは存在しないのだから。あるのは、ほとんどの試みに寄せ集められた社会制度のごた混ぜだけだ。
第1章 カウンターカルチャーの誕生
カウンターカルチャーの「主流社会と対立するスタンス」をとるという考えは、ロマン主義に起源を持つと言います。そして、ルソーやマルクスといった思想家に引き継がれていったという歴史があるようです。一方、労働者階級は資本主義を倒して共産主義へ変えようという動きを起こしませんでした。
革命による資本主義の転覆に賛同するどころか、賃上げや医療給付などで利益を漸増することに心を傾けがちだった。
労働者が賛同したのは、革命ではなかった。改革だった。
第二次世界大戦が終わり、時代が一九五〇年代に移ると、ファシズムや全体主義への異常なまでの忌避が生じ、この影響が民主主義や資本主義にまで及んだとしています。
多くの人が、西洋の民主主義を、根本はファシズム国家の機構の狡猾な変種にすぎないとみなすようになった。
労働者階級を広告攻めにして、安物の消費財で幸せになれると思うように洗脳するのだ。文化全般がイデオロギーの体系かもしれないという考えが、俄然もっともらしいものに見えてきた。
こうした考え方から生まれたのがカウンターカルチャーなのだそうです。
「社会」は想像力を狭め、心の奥底にある欲求を抑えることで人々を支配している。彼らが逃れるべきなのは、順応からである。そしてそうするためには、文化をまるごと否定しなければならない。対抗文化を形成しなければならない――自由と個性に基づく文化を。
第2章 フロイト、カリフォルニアに行く
本章では、フロイトの思想がカウンターカルチャーの基盤になっていることを論じています。
もしもフロイトの存在がなかったなら、おそらくカウンターカルチャーの思想が花開くことはなかっただろう。
人々がフロイトから学んだ教訓は、本能の抑圧から逃れるには、文化をそっくりそのまま斥けることが必要と言うことだ。
もしもこの文明が、フロイトの言葉を借りれば「衝動の抑制のうえに築かれた」ものだとしたら、文化の発展はみんなをだんだん神経症にしていくプロセスになりうるのではないか。
文明の歴史とは要するに、社会の抑圧装置を少しずつ内在化した歴史なのだ。
以上の考え方は構造主義的であり、ミシェル・フーコーが「監獄の誕生」で唱えた考え方につながるように感じます。そして、筆者はマルクス思想とフロイトの考え方からカウンターカルチャーの下地が出来上がったと述べます。
マルクスが主に懸念していたのは労働者階級の搾取だった。フロイトは国民全体の抑制を案じていた。この二つの統合から新しい概念が生まれた。抑圧である。
第3章 ノーマルであること
筆者は、カウンターカルチャーに対して否定的な立場をとっています。
カウンターカルチャーの反逆は、せいぜいが偽の反逆である。進歩的な政治や経済への影響などいっさいもたらさず、もっと公正な社会を建設するという喫緊の課題を損なう、芝居がかった意思表示にすぎない。
カウンターカルチャーを論じる上でカギとなるのは、「なぜ人間にはルールが必要か」という問いです。一見すると、ルールは個人の自由を奪う枷であるように思えますが、実は個人にも恩恵があると主張します。これは「囚人のジレンマ」から導かれます。
多くの場合みんなが強制的なルールに統制されているときのほうが、みんなに都合がいい。
この種の状況は「集合行為の問題」と呼ばれる。誰もが特定の結果を得たいと思っているが、それをもたらすのに必要なことをする動機は誰も持っていない
ここで、単なるカウンターカルチャー的な反逆と反抗を区別しています。
意味のない、もしくは旧弊な慣習に異を唱える反抗と、正当な社会規範を破る反逆行為とを区別することは重要だ。つまり、異議申し立てと逸脱は区別しなければならない。
これは逸脱か異議申し立てか?この二つを区別するために適用できる、とても簡単なテストがある。(中略)「みんながそれをしたらどうなるか――世界はもっと住みよい場所になるのか?」もし答えがノーなら、疑うべき理由がある。
社会一般の利益を増進するルールに従いつつ、不公正なルールにしっかり異を唱えることで、ノーマルで、社会によく適応した大人になることは可能なのだ。
「ノーマルであること」の一つのきわめて重要な点は、ある人の行動がほかの人々に与える認知的緊張を著しく軽減することだ。
第4章 自分が嫌いだ、だから買いたい
この章では、カウンターカルチャーが消費主義の原動力となってきたという筆者の主張を強固にする論拠が並びます。消費者は他人との差異を求めて商品を買い続ける行為を選ぶことを、囚人のジレンマから導きます。オシャレかどうかは他人と差別化で決まるということが象徴的で分かりやすい例かもしれません。
大衆社会批判は過去四〇年にわたって、消費主義のきわめて強大な原動力となってきた。
つまり消費主義は、互いに相手に負けまいと張りあう消費者の産物のように見える。
消費支出を追いたてているのは順応主義者ならぬ非順応主義者である。
ヴェブレンの考えでは、消費主義の本質は、集合行為の問題、つまり囚人のジレンマだ。
経済成長は、人間の欲求を満たすための生産システムというより、巨大な軍拡競争のように見えてくる。
美的判断はつねに差異の問題だとブルデューは主張する。
第5章 極端な反逆
資本主義や消費主義という「体制」が諸悪の根源であるというイデオロギーを採用すると、全ての悪は資本主義のせいであり、全ての行為は資本主義への「反逆行為」になるという詭弁が成立することが指摘されます。
社会を一つの巨大な抑圧装置とするなら、あらゆる行為はたとえどんなに暴力的でも反社会的でも、この装置の過度な抑圧に起因する抗議や「仕返し」の一形態とみなすことができる。したがって、どんな悪いことが起こっても、結局は「体制」のせいにされ、それを犯した個人の責任に帰されることはない。
しかし、ここで以下のような「反逆行為」のジレンマが出現します。
反逆者には二つの選択肢が残される。必然を受け入れ、大衆に追いつかれるか。それとも新しいものを、もっと過激なスタイル、さほど多くの模倣者をまだ引き寄せていないので差異のもとになるスタイルを見つけることで、さらに抵抗していくか。結局、反逆者が求めているものは、取り込み不能のサブカルチャーなのだ。
カウンターカルチャーは単に差異を追い求めているだけで、現状を何も良くする効果はないようです。消費主義と闘いたいなら、競争的な職場の構造における軍拡競争を規制することが「皮相的」ではあるが解決策になると提案しています。
ただ単に週労働時間数をさらに短縮する法律を課したり、強制的休暇を長くしたり、長期の悠久の出産・育児休暇を設けるといったことだ。
これは「人新世の『資本論』」でも提案されている「労働時間の短縮」とも共通しています。
第6章 制服と画一性
カウンターカルチャー的に制服は抑圧の象徴に見えるかもしれないが、むしろ、制服は無用な消費競争を抑える軍縮条約の効果があると指摘しています。
制服は個性を排除するとの考えもまた、一種の錯覚である。強いて言えば、制服はただ個人が個性を発揮する方法に制約を加えるだけだ。
きちんとした服装規定は競争の可能性を制限することで、さながら軍縮条約のように役立てられる。
第7章 地位の追求からクールの探求へ
あらためて、クール(かっこいい)かどうかも差異でしかないことが指摘されます。
クールは結局のところ差異の一形態だからだ。
そして、クールでありたいという欲求や、主流とは違っていたいというカウンターカルチャー的欲求は、資本主義にとって好都合であるようです。
資本主義は、有名な「創造的破壊の絶えざる烈風」とヨゼフ・シュンペーターが呼んだもので栄える。
そして、広告の効果を以下のように定義しています。
広告は洗脳よりもむしろ誘惑のようなものであることを理解する必要がある。
広告に関しては、人を無防備にする欲望とはすなわち、競争的消費を引き起こす欲望である。
そして、広告が競争的消費をけしかけている状況自体は好ましくないことは認めたうえで、広告の経費控除率を下げるなどで過剰な広告を規制するべきであると言います。これも、「人新世の『資本論』」で唱えられている「使用価値経済への転換」と同様の主張であると言えそうです。
第8章 コカ・コーラ化
資本主義における商品の画一的自体は、資本家などの意図によるものではなく、効率化の結果でしかないことが説明されます。
大量生産に伴う画一性というのは「大衆社会」に固有の性質などではなく、生産力の発展の一段階にすぎないのではないかとの疑念がわき起こる。
また、ネットワーク外部性や標準化など、みんなが同じ商品や規格を採用することで得られる恩恵があるため、画一化が起こるようです。
ここで、ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」が引用されているのも面白いです。つまり、主食としてコメ、小麦、トウモロコシなどと種類が限られているのは、生産しやすくて比較的美味しいものだけが淘汰されて残った結果だからなのです。
消費市場に生じる好みの画一化は、消費需要の直接の帰結である。
量産品は注文品より安価であり、消費者は価格に敏感だ。
そして、他人との差異を求めるならば注文品を求めたくなり、それはより高価なものを求めるということを意味します。
「自分の個性は他人の仕事を増やしているか?」もし答えがイエスあらば、より多く支払う用意をするべきだ。
重要なのは、ほかの人たちの時間とエネルギーを犠牲にしてまで守るべき個性などないということだ。
そして、カウンターカルチャーの実践に対して以下の問いを投げかけます。
その一、「自分の個性はほかの人たちの仕事を増やしているか?」
その二、「全員がそんなふうに振る舞ったらどうなるか?」
第9章 ありがとう、インド
また、カウンターカルチャーが好む旅についても言及されています。いわゆる、「自分探しのためにインドに旅して人生が変わった」的な人を揶揄しています。所詮珍しい旅先に行くという差異を求めているだけであり、行楽地をめぐる競争(競争的転地)に踊らされているにすぎないのだそうです。
カウンターカルチャー的批判はかねてよりエキゾチシズム(異国趣味)に魅せられ、自らと対極にあるものを無批判に、ロマンチックに受け止めている。
行き先の価値は、そこにすでにどんなに多くの「現代人」がやってきているか、地元民がその到来にどれほど用意できていないか次第なのである。
第10章 宇宙船地球号
前章と合わせて、現代医療とテクノロジーの有効性を示しています。「現代文明なめんなよ」という姿勢が垣間見えます。科学的に有効性が証明されていることまで否定するなら、そのカウンターカルチャーは間違っていると言えそうです。
テクノロジーは唯一の道具や機械ではなく、唯一の知識や生産の範囲ですらない。むしろそれは「あらゆる分野の人間の活動で、合理的にたどり就いた、また絶対に効率的な方法論の総体」である。
また、適正技術と呼ばれるについては懐疑的な態度をとっています。これは、「人新世の『資本論』」での「生産過程の民主化」とは反対の主張であるように見受けられます。ここでの筆者の問いは前述と同じく、「もしもみんながそれを使ったら?」に集約されます。
また、筆者の提案する環境問題への解決策は、排出量取引制度などの「使う分だけお支払い」社会だそうです。これはコモンに近い考え方の気がします。
どんな環境問題も一皮むけば集合行為の問題だ。囚人のジレンマと共有地の悲劇は、僕らがなぜ、地球を破壊しつつあるのかについて知るべきことのすべてを物語っている。
結論
最後に、筆者の主張は以下に集約されます。
この社会に必要なのは、ルールを増やすこと。減らすことではない。
資本主義では解決できない社会問題はあるかもしれないが、それは資本主義のせいではなく、資本主義で手が届かないだけなのだということのようです。
左派批判家が資本主義の重大な欠陥としていることのほとんどは、実際には市場の失敗の問題であって、市場がしかるべく機能していた場合の結果ではない。
システムの責任ではない。問題はシステムに内在する抜け穴だ。解決は抜け穴をふさぐことであり、システムを廃することではない。
したがって、社会問題を解決したいならば資本主義を打倒するのではなく、資本主義を改善することを考えるべきであり、特に囚人のジレンマで軍拡競争に陥っている状況を軍縮条約によって規制するべきだそうです。
グローバル資本主義を最大限に利用するとは、どういうことだろうか?それは市場の失敗をくまなく探し出し、見つけたら、どのように解決できるかを創造的に考えることだ。
今日の社会で最も目につく欠陥は、解決されないままの集合行為問題の数々である。そのため「軍縮協定」がそれを正すのに最も有益な考え方を与えてくれる。
文明とは、ルールを受け入れ、他者のニーズと利益を尊重し私利の追求を抑えるという僕らの意志のもとに築かれるものだ。
まとめ
資本主義社会における問題は、資本家や社会からの抑圧によって生じるのではなく、消費者同士が差異を追求する競争に陥ることによって生じている。そして、カウンターカルチャーはただ差異を追い求めることに終始していて何ら効果がなく、むしろ悪化させていると主張する内容でした。
囚人のジレンマを引用することで、資本主義がもたらす問題は軍拡競争が原因であり、軍縮協定が解決策になり得るという主張をしています。このように制度に着目して問題や解決策を考えていることを踏まえると、構造主義的な立場をとっているのかなと思いました。
個人でもできることとしては、1. 差異を求めすぎない(地位財を求めない)、2. 働きすぎない、の2点でしょうか。あなたも何かに反抗したくなったら、それが逸脱か異議申し立てかを問うてみましょう。以下の2つの質問を投げかけるのです。
その一、「自分の個性はほかの人たちの仕事を増やしているか?」
その二、「全員がそんなふうに振る舞ったらどうなるか?」
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