今回は『反逆の神話』を読んだ感想をまとめます。資本主義とカウンターカルチャーの関係性を説明している名著ということで、読んでみました。
あくまでも個人の感想であり、要約や解説ではないことをご了承の上お読みいただければ幸いです。
序章
以下の一文に、この本の主張は集約されています。
カウンターカルチャーは資本主義を打倒すべく数十年に渡って活動が続いてきたにもかかわらず、資本主義が存続している理由を資本主義の構造から説明します。
第1章 カウンターカルチャーの誕生
カウンターカルチャーの「主流社会と対立するスタンス」をとるという考えは、ロマン主義に起源を持つと言います。そして、ルソーやマルクスといった思想家に引き継がれていったという歴史があるようです。一方、労働者階級は資本主義を倒して共産主義へ変えようという動きを起こしませんでした。
第二次世界大戦が終わり、時代が一九五〇年代に移ると、ファシズムや全体主義への異常なまでの忌避が生じ、この影響が民主主義や資本主義にまで及んだとしています。
こうした考え方から生まれたのがカウンターカルチャーなのだそうです。
第2章 フロイト、カリフォルニアに行く
本章では、フロイトの思想がカウンターカルチャーの基盤になっていることを論じています。
以上の考え方は構造主義的であり、ミシェル・フーコーが「監獄の誕生」で唱えた考え方につながるように感じます。そして、筆者はマルクス思想とフロイトの考え方からカウンターカルチャーの下地が出来上がったと述べます。
第3章 ノーマルであること
筆者は、カウンターカルチャーに対して否定的な立場をとっています。
カウンターカルチャーを論じる上でカギとなるのは、「なぜ人間にはルールが必要か」という問いです。一見すると、ルールは個人の自由を奪う枷であるように思えますが、実は個人にも恩恵があると主張します。これは「囚人のジレンマ」から導かれます。
ここで、単なるカウンターカルチャー的な反逆と反抗を区別しています。
第4章 自分が嫌いだ、だから買いたい
この章では、カウンターカルチャーが消費主義の原動力となってきたという筆者の主張を強固にする論拠が並びます。消費者は他人との差異を求めて商品を買い続ける行為を選ぶことを、囚人のジレンマから導きます。オシャレかどうかは他人と差別化で決まるということが象徴的で分かりやすい例かもしれません。
第5章 極端な反逆
資本主義や消費主義という「体制」が諸悪の根源であるというイデオロギーを採用すると、全ての悪は資本主義のせいであり、全ての行為は資本主義への「反逆行為」になるという詭弁が成立することが指摘されます。
しかし、ここで以下のような「反逆行為」のジレンマが出現します。
カウンターカルチャーは単に差異を追い求めているだけで、現状を何も良くする効果はないようです。消費主義と闘いたいなら、競争的な職場の構造における軍拡競争を規制することが「皮相的」ではあるが解決策になると提案しています。
これは「人新世の『資本論』」でも提案されている「労働時間の短縮」とも共通しています。
第6章 制服と画一性
カウンターカルチャー的に制服は抑圧の象徴に見えるかもしれないが、むしろ、制服は無用な消費競争を抑える軍縮条約の効果があると指摘しています。
第7章 地位の追求からクールの探求へ
あらためて、クール(かっこいい)かどうかも差異でしかないことが指摘されます。
そして、クールでありたいという欲求や、主流とは違っていたいというカウンターカルチャー的欲求は、資本主義にとって好都合であるようです。
そして、広告の効果を以下のように定義しています。
そして、広告が競争的消費をけしかけている状況自体は好ましくないことは認めたうえで、広告の経費控除率を下げるなどで過剰な広告を規制するべきであると言います。これも、「人新世の『資本論』」で唱えられている「使用価値経済への転換」と同様の主張であると言えそうです。
第8章 コカ・コーラ化
資本主義における商品の画一的自体は、資本家などの意図によるものではなく、効率化の結果でしかないことが説明されます。
また、ネットワーク外部性や標準化など、みんなが同じ商品や規格を採用することで得られる恩恵があるため、画一化が起こるようです。
ここで、ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」が引用されているのも面白いです。つまり、主食としてコメ、小麦、トウモロコシなどと種類が限られているのは、生産しやすくて比較的美味しいものだけが淘汰されて残った結果だからなのです。
そして、他人との差異を求めるならば注文品を求めたくなり、それはより高価なものを求めるということを意味します。
そして、カウンターカルチャーの実践に対して以下の問いを投げかけます。
第9章 ありがとう、インド
また、カウンターカルチャーが好む旅についても言及されています。いわゆる、「自分探しのためにインドに旅して人生が変わった」的な人を揶揄しています。所詮珍しい旅先に行くという差異を求めているだけであり、行楽地をめぐる競争(競争的転地)に踊らされているにすぎないのだそうです。
第10章 宇宙船地球号
前章と合わせて、現代医療とテクノロジーの有効性を示しています。「現代文明なめんなよ」という姿勢が垣間見えます。科学的に有効性が証明されていることまで否定するなら、そのカウンターカルチャーは間違っていると言えそうです。
また、適正技術と呼ばれるについては懐疑的な態度をとっています。これは、「人新世の『資本論』」での「生産過程の民主化」とは反対の主張であるように見受けられます。ここでの筆者の問いは前述と同じく、「もしもみんながそれを使ったら?」に集約されます。
また、筆者の提案する環境問題への解決策は、排出量取引制度などの「使う分だけお支払い」社会だそうです。これはコモンに近い考え方の気がします。
結論
最後に、筆者の主張は以下に集約されます。
資本主義では解決できない社会問題はあるかもしれないが、それは資本主義のせいではなく、資本主義で手が届かないだけなのだということのようです。
したがって、社会問題を解決したいならば資本主義を打倒するのではなく、資本主義を改善することを考えるべきであり、特に囚人のジレンマで軍拡競争に陥っている状況を軍縮条約によって規制するべきだそうです。
まとめ
資本主義社会における問題は、資本家や社会からの抑圧によって生じるのではなく、消費者同士が差異を追求する競争に陥ることによって生じている。そして、カウンターカルチャーはただ差異を追い求めることに終始していて何ら効果がなく、むしろ悪化させていると主張する内容でした。
囚人のジレンマを引用することで、資本主義がもたらす問題は軍拡競争が原因であり、軍縮協定が解決策になり得るという主張をしています。このように制度に着目して問題や解決策を考えていることを踏まえると、構造主義的な立場をとっているのかなと思いました。
個人でもできることとしては、1. 差異を求めすぎない(地位財を求めない)、2. 働きすぎない、の2点でしょうか。あなたも何かに反抗したくなったら、それが逸脱か異議申し立てかを問うてみましょう。以下の2つの質問を投げかけるのです。