2024年11月13日 雑談のちから
いつか自分の仕事部屋を作ることができたら、
置こうと思っていたものを
手放しました。
それは小さなおもちゃで、
値段にしたら数百円ほど。
一点ものでもなんでもなく、大量生産の代物で、
誰だって、今すぐ、
Amazonで買えるようなものです。
そういうものを少しずつ集めて、
自分の仕事部屋を持てたら、飾ろう、と思っていたのです。
ありえない
荒唐無稽な話というわけではなく、
きっといつか、そういう日も来るだろうと心の奥底で思っていましたしわ
ここ数年はそれはさほど遠い未来ではないのかも、と思うようになっていました。
でも、ここ1ヶ月の世界情勢、国内情勢、事件やゴシップやニュースを見ていると、
「そんな日はもう訪れないのかもしれない」と感じました。
現在進行形で、たくさんの人の権利が踏み躙られ、
適当に扱われています。
そして、権力のある、自分のことばかり考えている人がもてはやされます。
こんな状況では、どこにでもいる人間が、仕事部屋を持って、
そこを本や素敵な飾りやおもちゃでいっぱいにし、
楽しく暮らせる日なんて、こないような気がしました。
そんな未来なんてどこにもないような、
そういう気分になったのです。
ここ数年までずっともてはやされてきたもののその裏があちこちで明らかになり、
驚いたフリをしながら、
「ああやっぱり」と思ったりすることが増えてきました。
それでもこの世界には山ほどどうでもいい思い込みや仕組みがあって、
それらから抜け出たと思っても
まだその中にいるのです。
鳥籠の上にさらに鳥籠があって、その上にはさらに大きな鳥籠があって…というイメージです。
本当の絶望は、直線や平面ではなく、入れ子構造になっているのだと思いました。
立体的で、組み合わさっているのです。
いっそ、何もない画面に書かれた、一本の線のようであればいいのに、
もっと複雑で、立体で、あちこちが関係しあっているのです。
何もないなら、そこで何か始められます。
そうではないから、絶望なのです。
わかりやすいスローガン、
はっきりした敵、
自分が信じるものはいつだって正しいというのは、
平面的です。
裏側は、高さの陰にあるものは、見えないし、
存在しないのです。
疲れてくると、そういうシンプルさが眩しく、ありがたく思えてきます。
でも、それは、とても危ない眩しさだとも思います。
そうこう考えているうちに、
自分が思い描くような未来はこないのだと確信してしまい、
少し虚脱した状態になりました。
そして冒頭に書いたように、おもちゃを手放したのです。
しかし数日が、
思ったより早くに、復活しました。
それは、雑談のおかげです。
noteでは繰り返し書いていますが、
私は雑談というのは、とても力があるものだと思っています。
そして、
今世の中に足らないのは、雑談だとも思います。
聞いたり、しゃべったりしたからと言って、
儲かりもしない、普通の話が
あまりにも少ないのだと思います。
少なくとも私は友達との雑談をしているうちに、
世界に対する信頼や希望というものを
回復することができました。
結局、雑談が大事なのです。
吐いて捨てるような雑談でも、
どうでもいい雑談でも、
消えてしまうような雑談でも、かまいません。
本当にささやかで、
他愛ない、おしゃべり。
内容はなんだっていいのです。
見たもの、見なかったもの、
これから見るもの、夢に見たもの、
聞こえてくるもの、聞こえたもの、
聞こえたかもしれないもの、
思いついたこと、忘れてしまったこと、
なんでも。
もちろん、相手の話も聞くのです。
雑談は演説とは違います。
一方的では、雑談とは言えません。
一緒に笑ったり、少しがっかりしたり、
怒ったり、悲しんだりしてこそ、雑談です。
こんがらがった出来事の多くは、
こんがらがって、かたまり、錆びて、解けなくなるまでに、
ほどけるかもしれない時期があるのです。
その時期が終わってしまうまでに、
どうでもいい話を山ほどした方が良いのだと思います。
世界やこの国の情勢に、絶望を感じましたが、
友達とどうでもいい話をして、笑い合ったり、慰め合ったりすると、
「ああ、面白い」と素直に思えます。
絶望に負けないということは、
絶望と正面切って戦うことではなく、
耐えることなく雑談をしていって、
立体構造の絶望の隙間に
そういう小さな面白さを絶やさないようにする、ということなのかもしれません。
嫌な奴ら、酷いことをする奴ら、
他人を踏み躙る奴らに、負けないために、
雑談をするのです。
1人で唇をかみしめて耐えてはいけないのだと思います。
黙って耐えている人を葬り去るのはたやすいのです。
出来れば、身近な人と直接、
それが難しい場合は、SNS上で、
議論やレスバではなく、
雑談をしてみてください。
なんだか少し、元気が出てくるはずです。