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2024年9月2日 悪意との接点


雨が降っている時に、外出し、
どこか、店に入る際、皆さん、傘はどうしますか?
傘立てがあったら、そこに立てますか?
傘袋があれば傘袋に入れますか?
それとも持って入りますか?

おそらく、
「傘立てがあるなら、傘立てに立てる」が、正解なのだと思います。
しかし、私はこれが苦手です。

なぜかと言うと、以前、傘立てに立てた傘が盗まれてしまったからです。
高校生の頃、素敵で可愛いものは自分なんかに似合わないと思っていた時期に、
ドット柄のビニール傘を、勇気を出して購入しました。
勇気を出して購入したといいましても、バイトをしていない高校生が買えたわけですから、大した額ではなかったはずです。
100円から300円程度ではなかったかと思います。
それは水色の縁取りに水色の水玉が散りばめられた透明のビニール傘でした。
今思えば、さほど凝った柄ではありません。
ただ、卑屈になっていた高校生の自分には、この傘を購入するのにとても勇気がいったのです。
もちろん、使ってみるのにも、勇気が入りました。
「ブスがきどってんじゃねえよ」と言われるのではないかとやや緊張しながら、傘を開いたような気がします。
気にしていたほど、周囲の人は私の傘には興味がなく、ジロジロ見られることはなかったので、次第に余裕が出てきました。
水色の水玉越しに見る雨雲は、灰色でしたが、少し明るく見えました。
まあるい水色の玉が弾んでいるように見えたからでしょうか。
暗い下駄箱に入った時も、明るい傘のおかげで、妙に楽しい気分だったのを覚えています。
傘の水を切って、傘立てに立てました。
その日の夕方、あの傘をさすのだ、と、ワクワクしながら、傘立てに目をやると、私の水玉柄の傘は無くなっていました。
涙を堪えて、傘を探しましたが、どこにも見当たりません。
その後、どうして、帰宅したかは覚えていません。
傘をささずに帰ったような気がします。

この時に初めて、世の中には『傘を盗む』という行為をする人がいることに気づき、
ひどく恐ろしくなりました。
世の中には、そういう悪意を気軽に行使する人がいるのだ、と初めて気付いたのです。
「そんなことくらいで?」と思う人もいるでしょうが、私はこういう不意の小さな悪意にめっぽう弱いのです。
背筋がゾッと冷え、足下がぐらりと、崩れるような気がします。
何よりも恐ろしいのは、傘を持っていった相手には、おそらく、申し訳なさや私を恐怖に陥れたつもりが、まるでない、ということです。
そのことを想像した時の怖さが今でも残っていて、傘立てに傘を立てることが嫌なのです。
傘を盗まれたのはまだ受け止められるとして、
そういう小さな悪を持った人がついさっきまで、近くにいたということがひどく、恐ろしいのでした。
さらに数年後、親しくしていた人がとても自然に、傘立てにあったブランド傘を借りるといいながら、勝手にとっていこうとする場面を見て、心底、嫌になりました。
その時は、私が声をかけて止めましたが、全く悪びれず、「『借りて』、何が悪いのか?」と問い返されました。

世の中にはそういう人がいるのです。

それ以来、私にとっては傘立ては悪意との接点です。
傘を立てる場所ではなくて、悪意と接してしまうかもしれない場所になってしまったのです。
なので、せっかく買った、骨が多めの、高価な傘は、家に置いたままにしています。
ですから、普段使いは、折りたたみ傘にしています。濡れた時用に、細長いプラスティックバッグの中に入れてあり、どこかの店に入る際は、水を切ってからそれに入れ、カバンにしまいます。
傘立てに置くような傘はできるだけ持たないようにしているのです。
持つとしても、100均で購入した小さくて壊れやすいビニール傘だけと決めています。
そういう安い傘であっても、傘立てに立てる際にはとてもためらいます。
また、悪意と遭遇してしまうかもしれないから、です。
傘というものががなくなることはもちろん辛い、
でもそれ以上に普通の人のちょっとした悪意にで出会うことが、嫌です。
人が善意だけの存在でないことなんて、わかっています。
悪意たっぷりの小説や映画は楽しんで読んだり見たりしていますし、
様々な悪意をSNSや人からの伝聞で見聞きします。
時にはそういう悪意を楽しんでいることもあります。
それでも、近所の、それもちゃんと傘立てがあるようなお店で不意に悪意と出会いたくはないのです。
そう言えば、母は、私がホラーや実録物の書物を(それが一般に流通しているものであっても)、私が所有し、収集するのをよく思っていませんでした。
今思えば、母はその人生において、本物の悪意をすでに知っており、それゆえに、悪意に遭遇しないように出来るだけ守って、私を育ててくれていたのでしょう。

悪意に完全に触れずに生きていくことは不可能ですが、
最近は、それでも、リアルな悪意に気軽に近づかないように気をつけています。
人間は何にでも慣れる生き物で、悪意にも慣れてしまうからです。
悪意になれると、悪意を人に向けることになれるだけでなく、
より黒々とした悪意にも違和感を抱かなくなります。
私は、母ほどに禁欲的ではなく、悪意を面白がるところもあるため、
悪意に慣れてしまうとより大きな悪意にも魅せられてしまうと思うのです。
自分からの迸る悪意にも、他人から滲み出る悪意にも鈍感になるということは、
もっと濃い悪意に惹かれ、またそれを呼び寄せることでしょう。
傘を盗んだ人はおそらく、これまで継続的に小さな悪意に晒されてきた人なのだと思います。
そういう意味でその人は、悪意の被害者で、しかし、同時に、加害者でもあるわけです。
それは、可哀想だと思うものの、
自分の日常に小さな悪意を忍び込ませたくない私は、
傘立てに、傘を立てず、素通りします。
悪意との接点を避けるために。




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