
希望があれば生きていける人
むかしむかし、ある寂れた村に、希緒(きお)という若者が住んでいました。村は長年の不作に苦しみ、多くの人々が希望を失いかけていました。
しかし希緒は、どんなに辛いときでも「希望があれば生きていける」と信じていました。
ある日、村の古井戸の底で、小さな光を見つけました。それは、か細いけれど、確かに光る希望の種でした。
希緒はその種を大切に育て始めました。周りの人は「そんな小さな種に何ができるのだ」と笑いましたが、希緒は毎日水をやり続けました。
すると不思議なことに、その種は芽を出し、すくすくと育ち始めたのです。
希緒は村人たちに語りかけました。
「見てください。小さな希望でも、大切に育てれば、必ず芽は出るのです」
やがてその木は、美しい花を咲かせました。その花は夜でも光り、村人たちの心を明るく照らしました。
希緒は続けて言いました。
「希望は時に小さなものかもしれません。
今日一日を生きる希望、
明日の朝日を見る希望、
誰かの笑顔に会える希望。
でも、その小さな希望があれば、私たちは前に進めるのです!」
村人たちも、少しずつ自分なりの希望を見つけ始めました。
ある人は畑に新しい作物を植え、
ある人は子どもたちに昔話を語り始め、
ある人は隣人と助け合いを始めました。
そして不思議なことに、小さな希望が次々と芽吹き始めると、村全体が少しずつ変わっていきました。
畑には実りが戻り、
子どもたちの笑い声が聞こえ、
人々の表情が明るくなっていきました。
後に希緒はこう語りました。
「希望は、私たちの中にある小さな灯火のようなもの。時に弱々しく揺らぐこともありますが、決して消えることはありません。その灯火を信じて生きていけば、必ず道は開けるのです。」
そして「希望の灯火、命の糧」ということわざが、この村から広まっていったとさ。
めでたし、めでたし。
と思う2024年11月8日13時00分に書く無名人インタビュー946回目のまえがきでした!!!!!
【まえがき:qbc・栗林康弘(作家・無名人インタビュー主宰)】
今回ご参加いただいたのは 松山和子 さんです!
年齢:50代前半
性別:女性 ※ただし、中身はかなり男前
職業:個人事業主
instagram:https://www.instagram.com/kazunee1009
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現在:私、元々教員のときから仕事が趣味なんですよね。
qbc:
では最初の質問ですね。今何をしている人でしょうか。
松山和子:
この4月にメンタルコーチとして起業して、8月から婚活事業をスタートして、今年の年末、11月末ぐらいに障がい児支援事業を立ち上げようと今準備しているところです。
qbc:
それぞれどんな感じでやられてるんですかね。
松山和子:
基本オンラインで全部承ってるんですけど、一見バラバラなように見えるかもしれないんですが、私の中では全部繋がっていて、全て子どもたちの笑顔のためにとか、子どもたちの持っている特性を生かしながら社会に貢献できる大人に育てていきたいっていう、そこが共通しているんです。
婚活事業もマッチングがメインの目的ではなくって、未来のパパママを育てることが目的で始めたんですね。なんで、そんな感じで事業を進めています。
qbc:
婚活だけど、子どもを産むっていう前提のっていう意味ですかね、これは。
松山和子:
別にマッチングもやってるんですよ。結婚相談所も構えてるので、別にそれはそれでいいんですけど、ただそもそもがですね、婚活やってる人たちって、コミュニケーション能力がめちゃくちゃ低いんですよね。
qbc:
はい。
松山和子:
だからコミュニケーション能力が低いままだと、そもそもマッチングもしづらいっていうのもあるし、仮にたまたまうまくいって結婚できたとしても、家庭生活を送っていく上でうまくいくかといったらうまくいかないことの方が多くなってくるじゃないですか。独身で時間的にも精神的にも、それから経済的にもちょっと余裕のある独り身の時に自分磨きをして欲しいな!って。で、特にその婚活する時って、相手に好かれようと思って努力をしようと思える時期なんですよね。だからそのタイミングを有効に使ってもらって、コミュニケーション能力とか、相手の気持ちを察する能力とか、そういうのを磨いてもらおうっていう形で立ち上げました。
qbc:
はい。うん。個人事業主になられたのはいつ頃なんですかね。
松山和子:
今年の4月です。
qbc:
その前は何されたんですか。
松山和子:
その前はですね、私元々小学校の教員を15年やって、その後は障がい児支援施設の管理者を4年ぐらいやってました。
qbc:
はい。なんで独立というか個人事業主になられたんですか。
松山和子:
一言で言うと働きたいところがなかったんですよね。障がい児支援事業所は、私は4年間で5回ぐらい変わってるんですけど、どこも私の求めてる支援ができるような場ではなかったので、働きたいところがないんだったら自分で立ち上げるしかないよねっていう形で立ち上げました。
qbc:
順序的にはそのメンタルコーチを最初にっていうことですかね。
松山和子:
そう、「大人への教育」がしたくて、メンタルコーチとして立ち上げたんですけど、元々は障がい児支援がやりたくて仕方なかったんですよ。
いつかやるって決めてたんだけど、ただ障がい児支援・福祉事業って、基本的には公的な事業なので、それをビジネスでやっていくっていうのはちょっと難しいよなって判断したんですね。
だからとりあえずメンタルコーチとして、または婚活事業の方で認知度というか、収益とかあげてから、のちのちボランティアに近い形でもいいから障がい児支援をやりたいなって思ってたんですよ。
qbc:
はいはいはい、なるほど。
松山和子:
だけどその気持ちがワーッて出てきちゃって、駄目だ。私が一番やりたいのは障がい児支援だ。って思って動き出したって形ですね。
qbc:
なるほどね。メンタルコーチ、婚活っていうのはやりたいことのメインっていうわけではない感じですかね。
松山和子:
そう、(やりたいことの)1つって感じですね。枝葉の部分ですね、私の。
qbc:
障がい児支援はまだ始まってないと。
松山和子:
はい、今年の11月末にスタートします。
qbc:
どういった感じの支援をされるんでしょう。
松山和子:
いろいろ今企画を立ててるんですけど、一つは、支援コンサル。世の中起業コンサルはいっぱいあるんですよ、福祉系の。
なんでかって言うと、障がい児支援事業所っていうのは、今一般の企業がめちゃくちゃ参入して来てるんですね。8割、9割ぐらいが一般の企業が参入してきていて、要はド素人の人が立ち上げるので、福祉事業所を。わからないんですよ、何にも。
ってなると、コンサル必要だよねってなって、コンサル費用が300万から400万円くらいするんですけど、それを大体皆さん頼まれるんですよね。
でもその起業支援っていうのは、要は書類上のことだったりとか、システム上のことだったりとか、そういうサポートをしてくれるだけで、運営、中を回していくことに関してのサポートってほぼほぼないんですよね。
qbc:
はい。
松山和子:
でも、本当は中身の方が大事で、中身が薄っぺらいから支援がちゃんとできないし、子どもたちも育たないし、結果子どもたちも離れていったりとか、っていう悪循環に陥ってくるので、私はそういう障がい児支援事業所に対して支援を教える、支援のコンサルをやろうって思って、まず1つの企画としてはそれを挙げています。
qbc:
はい。
松山和子:
当然そういう事業所ってそんなに金銭的に余裕があるわけではないので、行政書士の先生にお願いして補助金のサポートを得られないかっていう相談をしました。もし得られるんだったらそことセットにさせてくださいっていうお願いをしています。
2個目は障がい児才能開発プロジェクトっていうのを立ち上げようと思っていて。実は私、AI動画クリエイターのビジネスパートナーがいるんですね。その人にホームページとかいろいろ頼んだり、一緒に何かをちょっと企画させてもらったりしてるんですけど。
私、自分もその人の影響でAIを勉強し始めて、このAIを障がい児の子どもたちが使えるようになったら、子どもたちの未来の可能性や選択肢を広げられるんじゃないのってめちゃくちゃ思ったんですね。
qbc:
うん。うん。
松山和子:
障がい児の子たちって、今の段階だと先が見えてるんですよ。A型事業所B型事業所っていう要は安い工賃で1日中働かされて、何か作業的なことしかさせてもらえなくて、もう行き先はそのどっちかみたいな。ちょっと給料の違いがあるぐらいで、言い方悪いですけど一般的な社会人として扱ってもらえないっていうか。経済面でも自立できないし。
今の段階だと、そういう未来しか待ってないというのがほぼほぼなんですけど、その子たちがAIのスキルを身につけたら、他の仕事でも給料を得られるじゃないですか。自分で何か例えばAIの動画作りました、それを受注してお客さんに販売して、そこからお金を得るっていう、そのサイクルっていうか。その形態で働くこともできるんだっていうのがわかれば、無理に作業所に行かなくても、自分に合った働き方ができる。自分の力で生きていけるんだってことがわかれば、子どもたちの未来は明るいし、可能性も広がるし、希望を持って生きていけると思うんですね。
だからその才能開発プロジェクトではとりあえずAIからスタートしますけど、他にもアートだったり、本を自分で書きましょうっていう、そういうプログラムもちょっと考えてたりとか。今後ご縁いただく方とも、そのアート系だったりとか音楽系だったりとか、とにかく1つのスキルとして収益化できそうなものを、オンラインスクールで開校していこうと思っています。それが2つ目。
3つ目は相談支援に特化したコミュニティを立ち上げようと思ってます。ママたちがよく立ち上げる「そうだよね、辛いよね。」みたいな、そういうコミュニティってもう山のようにあるんですけど、それだと共感して終わりだし、そもそも共感だけだと、お母さんたちは依存傾向になっちゃうだけで全然成長しようとしないんですよね。
だからそれだと子どもたちを成長させられないので、私は卒業制度を設けようと思ってるんです。例えば3ヶ月とか6ヶ月とか期間を決めて、その期間でしっかり学んでくださいねって。例えばお母さんが相談をします、私達が答えます。そしたらその回答をもとに次は自分でちょっとアレンジしてやってみてねとか。または他の人に対するアドバイスを聞いて、自分でも取り組んでみてねとか。その決められた期間内に頑張って成長して、自信を持って子どもたちに支援ができるように、子育てができるようにしてあげるっていうのが私の目的なんですね。だからそういうコミュニティを立ち上げようと思ってます。
qbc:
そもそもこの障がい児支援に携わろうと思ったきっかけって何だったんですか。
松山和子:
一番最初? 4年前ってこと?
qbc:
そうですね。教員から障がい支援をしてコーチング立ち上げられて、最終的にやっぱり障がい児支援っていうふうなお話だったんですけど、そもそもなんでそっちのルートに入ったのかなっていうのは。
松山和子:
あのですね、教員を辞めたのは、結婚を機に辞めたので別に深い意味はなかったんですよ。実は、1回辞めちゃうと教員に戻れないんですよ。講師には戻れるけど教員には戻れないんですね。
だからね、離婚して戻ってきたときに、教員には戻れないからどうしよっかなって考えたんですよ。普通の学校の教員やってるときにも、障がい児支援の子たちって当然いたんですよね。学級の中に。
だからそういう子たちと関わってて、障害児支援に興味はめちゃくちゃありました。こういう子たちにもっと支援したいなって。ただ人数がね、どうしても30人とか40人も抱えているから、そういう子たちへの支援をなかなかしてあげられないんですよ。本当はこういう子たちをもっとピンポイントで指導したり支援したりできたら、育てていってあげられるのになっていう思いを抱いていたので、仕事に復職するのをきっかけに、障がい児支援に行こうって決めた感じです。
qbc:
障がい児支援を選んだ理由っていうのは何だったんですか。
松山和子:
元々障がい児支援に興味があったからです。
qbc:
興味を持った理由ってなんだったんですか?
松山和子:
興味を持った理由。一般の学級だと30人40人いるじゃないですか。その中で例えば1人2人とかは学級の中に今だと大体いるんですよね。特別なサポートが必要な子っていうのは。そういう子たちって一般の学校の中だと、できない子っていうレッテルを貼られてほっとかれることが結構多いんですよ。
qbc:
はい。
松山和子:
でも私はほっとくっていうことができないので、めちゃくちゃ指導したり支援したりとかしてたんですね。そうすると、やっぱり変わるんですよ、支援とか指導とかすると。
昨年度まで聞いてた様子と全然違うぐらい大きな成長が得られるんですね。そこでの手応えが私にはあったので、それをいつかやりたいなって思ってたんです。
qbc:
うん。なるほど。ありがとうございます。今お仕事以外のことって何かされてることってありますか?
松山和子:
仕事以外のこと?
qbc:
はい。
松山和子:
今ですか。
qbc:
はい。
松山和子:
今はもう何もしてないですよ。本当に朝から晩まで仕事のことしか考えてません。
qbc:
何か生活時間寝る時間とか、食事、入浴以外の時間って、あと何か合間を縫って何々をするとか、そういうのもないですか?
松山和子:
ないです。もう本当に仕事してます。
今だと準備期間なので、企画考えたりとか、考えたものを計画書にまとめたりとか、あと営業関係もやってるので、Zoomで面談したりとか、あとThreadsとかSNS関係もやってたりするんですけど、そのどれかをやってますね。
qbc:
その状態に入る前の趣味とかは何だったんですかね。
松山和子:
私元々教員のときから仕事が趣味なんですよね。だからあんまり他に趣味ってなくて、テレビとかもほとんど見ないですし、あんまりないんですよね。よく趣味って何ですかって聞かれるんですけど、いつも仕事ですって答えてますね。
qbc:
一番最後に観た映画って何ですか、じゃあ。
松山和子:
最後に観た映画? そんなの全然思い出せないです。どんだけ前だろう。
qbc:
何年前、何歳ぐらいの頃見たんでしょう。
松山和子:
10年ぐらい前かな、どうだろう?映画館に観に行ったのは少なくとも10年ぐらい前とかじゃないですかね。でも何を観に行ったかも全然覚えてない。
qbc:
なんで観に行ったんすかね。
松山和子:
デートとかじゃないですか?(笑)
qbc:
デートで観た。
松山和子:
そう。多分映画見に行こうって言われて行った気がするんですけど、あんまり自分から映画観たいですっていうタイプではないので。
qbc:
好きな作品はなんか何でもいいんですけど、漫画でも小説でも、映画でもいいんですけど、なんか好きなフィクションの作品はって言われたら、何かあります?
松山和子:
あのですね、本は好きなんです。本はもう本当に多種多様の本を読みます。私作家さんで選ぶんじゃなくて、本屋とか行って適当に選んだりとか、あとすごい大量に買うので、メルカリとかも使ったりするんですけど、もう本当にバーって適当に見てこれ欲しいなって思ったらそれ買って片っ端から読むので、あんまりジャンルとか人とかにはこだわってないですね。
qbc:
はい。じゃあ最近読んだ本なんですか。
松山和子:
最近読んだのは、一番最近はね、「自分らしく、あなたらしく」。きょうだい児の本です。
qbc:
はい。どんな内容の本なんですかね。
松山和子:
きょうだい児っていうのは障がいのあるお子さんのきょうだいのことを言うんですけど、きょうだい児の目線で、著者の方が聞き取りをして書かれた記録とか、小さい頃からどんな思いをして育ってきたかっていう、そういうストーリーです。
qbc:
どんなふうに感じましたか?
松山和子:
本当に届いたばっかで、まだ半分ぐらいしか読んでないんですけど、きょうだい児支援もやろうって思いました。
qbc:
なるほど。家族サポートっていうところですかね。
松山和子:
そう。元々私母親支援、親御さん支援はやるつもりだったんですけど、きょうだい児支援は、何となくイメージはしてたけど、それをやろうとまでは思ってなかったんですね。ただ本を読んだことによって、私、これもやろうって思いました。
qbc:
性格は周りの人からなんて言われたりします?
松山和子:
性格。まっすぐだよねとか、竹を割ったような性格だよねとか、男前だよねとか、はい。
qbc:
この場合の男前ってどんな意味なんでしょう。
松山和子:
多分ですけど、なんかすごいはっきりしてるとか、決断力があるとか、あとなんか、なんていうのかな。女々しくない、何て言うんですかね。なんか終わったことは終わったことみたいな。うん。
だから今の若い子たちの男性のイメージではなく、おそらく本当に男らしいみたいなイメージの男前じゃないですかね。
qbc:
なるほど。はい。ご自身では性格はどういうふうに思ってらっしゃいますかね。
松山和子:
そのまんまだと思いますよ。それから、自他ともに認める変人だと思ってます。
qbc:
はい。どういう変人なんですか。
松山和子:
例えば、「普通は」っていう言葉が私には通じないんですね。
qbc:
うん。
松山和子:
普通だったらそういうことしませんよねっていうことを平気でやるし、普通だったら人目が気になりますよねっていう場面でも、人目なんか全く気にならないし。普通だったら人に好かれたいですよねみたいなのも、私自分が好きな人じゃない人達から好かれなくても、別に全然平気ですって思うし。
qbc:
うん。うん。
松山和子:
なんか普通があんまり私には当てはまらない。
qbc:
はい。なるほど。身近な人、家族、パートナー、親友だったり、距離の近い人から言われる性格の一面ってあったりします?
松山和子:
私ですね、本当に近い人も遠い人っていうか初対面の人も、みんな今みたいに言われるんですよね。そう、だからあんまりその裏表がないっていうか、もう見たまんまみたいな多分そんな感じなんだと思います。
qbc:
なるほど。ちなみに好きな食べ物って何ですか。
松山和子:
ピザです。
qbc:
ピザ。何ピザですか。
松山和子:
マルゲリータ。
qbc:
ふわふわ系とカリカリ系だと?
松山和子:
カリカリ系。
qbc:
はい。ありがとうございます。
過去:「そのためにまずできることは何だろう」って思ったときに、「障がいをオープンにして私らしく生きていこう」って決めたんですよね。
qbc:
過去について聞いていきますね。子どもの頃、覚えてる限りの昔って感じでどんな子どもでしたかね。
松山和子:
私は小さい頃からちょっと変わっていて、本当に周りからなかなか理解されにくい子でした。
qbc:
うん。うん。
松山和子:
ただうちは目が不自由な全盲の祖母と一緒に暮らしてたんですね。家の中では祖母が中心だったんです。祖母はかわいそうな人、おばあちゃんはかわいそうな人だからおばあちゃん優先だよって育ってきたので、さっきのきょうだい児支援にも繋がるんですけど、きょうだいではないけどきょうだい児みたいなちょっと扱いをされてきたんですね。
qbc:
はいはい。
松山和子:
要は我慢して育ってきたというか、小さい頃。(我慢する)人生を送ってきた感じですね。で、いい子を演じてました。はい。
qbc:
これももうこの辺から、いわゆる障がいと呼ばれるものについては、今ほどの意識ではないですけどもそばにあったっていうことですかね。
松山和子:
そうです、そうです。
qbc:
なるほどね。何か好きな遊びとかどんな感じだったんですか。
松山和子:
好きな遊び。おままごととか好きでしたね。あと私、ピンク・レディーが大好きだったので、ピンク・レディーごっことかしてましたね。
qbc:
どんなことするんですか。
松山和子:
要はトップテンとかベストテンみたいな感じで、母のパジャマ、なんかちょっとネグリジェみたいな長いスカートのやつ履いて、階段の上から歌いながら降りてくるっていう。
あとはゴレンジャーごっこ。当時流行ってたので。今で言う戦隊物ですけど、ゴレンジャーとかサンバルカンとかも大好きで、テレビの前で一緒に戦ってましたね、悪と。
qbc:
小学校はどんな感じでした?
松山和子:
小学校は、幼稚園の頃と変わらなくて、いい子を演じてましたね。実際、そこそこいい子だったんですよ。成績も悪くなかったし。悪くなかったっていうかむしろ良かったと思います。
qbc:
うん。
松山和子:
ただ、どっかですごい冷静に見てるというか、大人ってこうだよねとか、1年生にもかかわらず、大人ってこう言っときゃいいんだよね、みたいな。ちょっとそういう何て言うのかな。冷静というか客観視してるような子どもでした。
qbc:
はい。そのいい子を演じてるっていうのは、何で演じてたんですか。
松山和子:
その方がみんな喜ぶから。
qbc:
っていうのは、いつ頃から意識するようになるんでしょうか。
松山和子:
そのときは自分が演じてるって気づいてなかったんですよ。私が、私っていい子を演じてきたんだって気づいたのは高校のときなんです。
qbc:
なるほど。先にそのお話を聞かせていただけますか。
松山和子:
私中学まで本当に優等生だったんですよ。生徒会に入るし、学校代表で答辞とか読んじゃうし、先生たちからは「どうしたらこんなに優秀に育つの?」って母親が言われたぐらい、本当に優秀だったんですよね。
qbc:
はい。
松山和子:
でもそれって自分のやりたいことと、求められてるもの、例えば生徒会とかみんなを引っ張ってほしいとかが合致してたから成り立ってただけなんですよね。それがちょっと無理していい高校に入ったので、段々と合致しなくなってきたんですよね。
qbc:
うん。
松山和子:
例えば勉強もちょっとついて行けなくなったりとか、部活も中学と同じバスケ部に入ったんですけど、上手い子たちがいっぱいいたから自分は選手になれなかったりとか、っていうふうになってきて、そっからもう悪行を頻繁に行うようになって、要は荒れた高校時代を過ごしたんですよ。
それで最終的に万引きで捕まって、10日間の謹慎をくらうんですね。
qbc:
はい。
松山和子:
10日間の間に、何か反省文みたいなのを毎日書かされるんですけど、そのときに過去のこととかを振り返ったりしたんです。なんで私ってこんなふうになっちゃったんだろうとか、この先私はどうしていけばいいんだろうとか、そもそも私って何のために生まれて来たんだろうみたいなことを考えるようになって、そっから私が心理学とかを学ぶようになったんですね。
心理学を学ぶ中で、例えばアダルトチルドレンだったりとか、自己肯定感だったりとか、いろんな言葉や情報を得て「あ、私っていい子を演じてたんだ」とか、「あ、私って苦しかったんだ」っていうことに気づいたんです。
qbc:
うん。なるほど。
松山和子:
はい。
qbc:
中学校の時はどんな感じだったんですか。
松山和子:
中学校はもう本当に大活躍ですよ。勉強もやらなくてもできたんですよね。学校の授業だけで、本当に全然余裕でついて行けたし、国語は得意だったのでほとんど100点ばっかだったし、1年のときから副級長とかやって、3年の時は前半に副会長やって、後半はファイア委員長っていって、文化祭を全部仕切ったりとか。最終的に、卒業式では代表で答辞を読ませてもらうっていう、もう本当に優等生街道まっしぐらでした。
で、ただの優等生じゃなくって、私はヤンキーの子たちとも仲良かったんですよ。だからファイア委員長のときに先生に「そんなタバコ吸ってるようなやつがおったらファイアフェスティバルなんかやらせてやれるか。」って言われて、「わかった私が何とかする。」って言って、ヤンキーが溜まってるところに行って全部タバコ取り上げて、先生に「ここまでやってるんだから、やらせてよ!」って言って、やらせてもらったっていう。
qbc:
高校は自分の本当の姿に気づいたっていう感じですか?
松山和子:
本当の姿というか、現実を突きつけられました。一番しょっぱなのテストでどべ3とって。
qbc:
うん。
松山和子:
最初、えーって思って。でも次のテストのときに回復しようと思っても、もうそれだけ進んじゃってるから全然追いつけないんですよね。
中学まではその、勉強しなくてもできてきたから勉強の仕方もよくわからなかったし、成績は常にびり3位ぐらいまでを行ったり来たりして、テストも部活もできない。家に帰ってくれば怒られますしね。成績が悪いから。どこにも自分の居場所がなくて、居場所はもう部室ぐらいしかなかったです。
授業中、みんなが授業やってるときの誰もいない部室が私の居場所でした。
qbc:
なるほど。高校の後は進路進学はどうされたんですか。
松山和子:
謹慎くらったときに、心理のことがすごい気になって勉強を始めてたので、心理学の学部に行きたいって思ったんですけど、心理学ってレベルが高いんですよね、そもそもが。結局私が受かったのが唯一自分の地元っていうか、割と近いところにある短大。1つしか受からなくて、6校ぐらい受けたんですけど。
そこはたまたま教職免許が取れる学校だったんですよ。短大なんだけど教職が取れるっていう。今はないかもしれないけど当時はあったんですね。
入ったときは別に教員になろうとなんか思ってなかったんです。
でも、教育実習に行ったんですけど、そのときに見つけちゃったんです。自分の居場所を。「ここは私の居場所だわ!」って思って。自分がやりたいことをやれて、子どもたちといるのがとにかく楽しくて、子どもたちにとって私の過去だとかそんなことはどうでもよくて、今の目の前にいる私を見てくれて評価してくれて「いや、こんな楽しいことないわ。」って思って「私先生になろう!」って決めたんです。
qbc:
はい。うん。なるほど。大学生活自体はどんな感じだったんすか。
松山和子:
前半は教員になろうと思ってなかったので、全然普通でした。授業だけはもちろん出てました。短大なので朝から晩まで授業は結構入ってました。でも授業出るだけで聞いてなかったし、テストもカンニングとかざらにしてたし、学ぼうっていう気はサラサラなかったです。
qbc:
うん。
松山和子:
ただし教育実習に行ってからは補習もわざわざお願いしてやってもらったりとか、一変しましたね。
qbc:
はい。ご両親からどういうふうに育てられたと思ってらっしゃいますか。
松山和子:
うちは厳しかったです。厳しかったし、ノーマルをすごく求められてきました。「目立つな」と。「目立つことすんな」と。うん。「とにかく普通であれ」とか。世間の目をやたら気にする親だったので。今でもですけどね。
qbc:
うん。目立つっていうとどういうことなんですか?
松山和子:
例えば私、中学校のときに、さっきヤンキーの子とかから全部たばこ取り上げたって言いましたけど、他にもヤンキーの子が音楽室からラジカセをパクッて行ったりとかしたのを見つけて取り返したりとかしてたんですね。
qbc:
うん。
松山和子:
そのときに取り返した反動で、骨折だったかなひびが入ったんですよね、指に。で、私は「めちゃくちゃ正義の味方じゃん」って思ってるわけですよ。この負傷はもう正義の勲章だと。でも、家に帰ったらド叱られて、「馬鹿か!」って。「そんなのほっときゃいいんだ。」って。「別に学校が損するだけであんたがやる必要はない。」って怒られて。そう、そんな感じでしたね。何か「余分なことやらなくていい。」って。
qbc:
うん。うん。当時どう思いました、そう言われて?
松山和子:
「なんで?」って思いました。「意味がわからないんですけど?」って思って。
qbc:
今はどう思います?
松山和子:
今もわからないですね。「生き方が違うんだな」って思ってます、今は。
大事にしたいこととか、そもそも生き方が違うんです。私の課題と親の課題は別物だと私は認識してるんですけど、親はまだ認識できてないので私のことが認められないと思いますけど、私は好き勝手やってます。
qbc:
ちなみに生き方が違うっていう意味で言ったら、自分が知りうる範囲の中で、多数派ですか、少数派ですか。
松山和子:
少数派ですね。間違いなく。
qbc:
それをどういったときに感じます?
松山和子:
今まで教員をやってきたおかげもあって、本当にたくさんの人に出会ってきたんですね。子どもはもちろんですけど、大人という人種にも、当然たくさん出会って来ました。その中で共感できる人ってめちゃくちゃ少なかったんですよね。本当に2割ぐらいしかいなかったんですよね。
ずっと前に何かの本を読んだときに、その2割8割みたいな、そういう分け方があって、ちゃんとわかってる人は2割なんだよって。本当に大事なことをわかっていない人が8割なんだよ。みたいな本を読んだときに私はすごく納得して、少数派でもちゃんと大事なことわかってるんだったらいいんじゃない?って思って、そっからは気にしてないです。
だから少数派ですね。仲良くできる人が少なかった。今まで。
qbc:
どういうところでぶつかります?
松山和子:
例えば教育方針とか。学校とかだったら。
qbc:
学校とぶつかるってことですか?
松山和子:
学校とか上司とか、普通にぶつかって来ましたね。
qbc:
なるほど。そういう意味でまず先生としては、どんな感じだったんですか。
松山和子:
本当に熱い教師やってきましたね。で、子どものことが何よりも優先なので、親から反発を受けようが、上司や校長とかから批判されようが、これで子どもを育てられる、これで子どもは育つ!って思ったら、そこは一切譲らなかったです。
qbc:
うん。うん。例えばどんなことが起きたりしたんですか?
松山和子:
例えば?
qbc:
ぶつかったエピソード。
松山和子:
例えば、一斉下校ってあるんですね。週に1回だけ全校で帰りますみたいな。そういうときに、たまたま斜め横断をした子がいたんですよ。横断歩道があったにもかかわらず。何で斜め横断したかっていうと自分が行きたいそろばん塾が斜め方向にあったから、斜め横断をしたわけですよ。
qbc:
うん。
松山和子:
私の後輩が見つけて、当然指導したんですね。それは危ないからやめろと。
qbc:
うん。
松山和子:
そしたらそこのそろばん塾のおばあちゃんと喧嘩になったんですね。「別にそんなのいいじゃないか。」みたいなこと言われて。「これは若い子じゃちょっと対応できないな。」って思ったから私が間に入って「いやいやこれは私達の指導で間違ってないし、ルールは守らせたいと思います。私達は命を守らなきゃいけないんで。」っていう話をしたんですね。
学校に帰って「ちょっとこんなトラブルがありました。」って報告したら、教頭が「ああ、いいよ。そりゃそうだよ、そっちのおばあちゃんが間違ってるよ。」って最初は言ってたんですけど、その後におばあちゃんが乗り込んできたんですよ。「おたくの教員はなっとらん。」みたいな。
そうしたら教頭に「松山さん謝って!︎」って言われて。「なんで私が謝らなきゃいかんのですか?」「意味がわからないんですけど?」って思って、反論しました。でも、「謝れ」の一点張りで。しつこいから、口先だけで一応謝りましたけど、態度は反発しまくりでしたね。体裁とか私、どうでもいいんですよね。
「学校を守るためだ」とか教頭に言われたんですけど、私は意味がわからなくて。学校なんか守らなくてもいいんだって。そもそも子ども1人ずつを守っていけば、学校は守れるわけであって、学校ありきじゃないから!って感じで、しょっちゅうぶつかってましたね。
qbc:
うん。うん。それ今、組織に属する人じゃなくなった今、思い返してどう思われます?
松山和子:
本当に今自由で幸せすぎますね。
qbc:
まあ当時は組織人だったからしょうがないと思いますけど。小学校はそういうルールで雇われてるんだから、上司部下の関係の中でそれを覆すのって難しいじゃないすか。
松山和子:
はい。
qbc:
そこに固執したわけですよね。組織の中で。
松山和子:
固執というか要は納得いかないじゃないですか。
qbc:
そうそう。その納得いかなさって結局今1人で働くようになったら、「なんであんなことしてたんだろう」って思ったのかなと思って、今の質問だったんですけど。
松山和子:
なんであんなことしたんだろうって思ってないです。あれはあれで私は正しかったって思ってます。
qbc:
うん。何かその他、小学校の教員時代で何か考えてたこととかってありますかね。
松山和子:
考えてたことっていうか、私さっきね、高校のときに自分には居場所がなかったって言ったじゃないですか。私が教員になりたかったのは、なろうって決めたのは、子どもたちの居場所になりたいって思ったからなんですよね。
いわゆる悪ガキって言われる子たちとか、落ちこぼれって言われる子たちとか、学級にはいろんな子がいるわけです。そんな中で、私が一番の悪(ワル)でいてやろうって私は思っていて、私が一番の悪でいれば、子ども達がどんな悪さをしても、その子たちを「悪い子」にしなくて済むわけですよ。
だから私は一番の悪でいてやろうって思って、あの子たちに居場所がないんだったら私が居場所になろうって思って教員になったんです。だから、そもそも他の先生たちと目的が違うんですよね。
qbc:
うん。
松山和子:
勉強を教えたいとか、安定した収入が欲しいとかじゃないから、他の先生達と、合わなくても当然なんですよね。て思ってました。
qbc:
なるほど。その後教職をやめてからっていうのは何年ぐらいあったんですか。
松山和子:
教職をやめて、今ですか?
qbc:
主婦時代?
松山和子:
主婦時代はね、2、3年あるんですよね。子どもはすぐにできたんです、割と。付き合って1年後ぐらいに結婚して、半年後くらいに妊娠がわかったので。ただですね、全然見えないと思うんですけど、実は私、障がい者なんですね。発達障害とかではなくて、脳の機能障害です。結婚して3年後ぐらいに脳の機能障害を発症して、それが原因で自分の感情とか思考がコントロールできない時期があって、それが離婚するきっかけになって、子どもとも離れ離れで。未だに一度も会わせてもらってないんですね。
qbc:
うん。
松山和子:
そんな経緯ですね。
qbc:
何の障がいがあったんでしょう。
松山和子:
私は双極性障害っていう、脳のドーパミンか何かが出過ぎちゃう障害なんですよ。私の場合は、それをコントロールする薬さえ毎晩飲んでいれば発症しないんです。でもそれをやめると大変なことになります。私病気じゃないんじゃないかって思って自分で薬をやめた時期があったんですけど、結局再発しちゃって。
qbc:
うん。
松山和子:
そしたら再発した反動で半年間ぐらい寝たきりの状態が続いてしまったんです。鬱のめちゃくちゃひどいやつ、起きていられないっていう。そういう状態が半年ぐらい続いて、そのときに自分の障がいをちゃんと受け止めて、もうオープンにして働くしかないなって思ったんですね。そう。
qbc:
それは結婚してからわかったんですか。
松山和子:
そうです。ただお医者さんに言わせると、「多分兆しはあったと思う。」って言われました。前からね、多少。
ただ、子どもの頃とかはないって言ってました。20代とか30代ぐらいからぼちぼち兆しはあったと思うよって言われて、振り返ると「ああ、そうかもしれんな。」って思うことはあります。
qbc:
1型と2型どっちだったんですか。
松山和子:
1です。
qbc:
なるほど。その後はどうなんですかね。就職をされる?その障がい児支援の。
松山和子:
えっとですね、実家に戻ってきて、そっから1回オープンじゃなくてクローズで障がい児支援で働いたんです。で、その期間に体調崩しちゃったんですね。
要は自分の障がいを隠してるので、「ちょっとやばいな」って思ったときに言えないんですね。本当だったらちょっとここ1週間ぐらい休んだ方がいいなって思うときに休めなくて。ちょっとなんかパワハラっていうかいじめみたいなのをされちゃったときに、すごいストレスがかかって、夜はアルコールを飲みまくって寝ちゃうから、薬を飲むのをやめちゃったっていう時期があったんですよね。
再発して、そのときに障がい者手帳とかも申請して、障がい年金も受給するようになって、もうとにかく全部を受け止めようと思って、1回。で、就労移行支援事業所っていうところに通ったんですよ。復活してから。
それは、障がいの人たちのハローワークや訓練所みたいな、就職のサポートをしてくれるところなんです。そこで、お試し契約みたいな形で、障がい児支援の管理者の職に就いたんですよ。
いくら障がいがあっても、やっぱり資格があって経験もあるし、発症していない状態なので、わりと雇ってくれるところはいくつかあって、ある企業に就職したんです。これが「どこまでひどいの?」と感じる事業所で。ストレスも溜まってきたし嫌がらせも受けたりとかして、もう続けられないなってことで、とっとと辞めました。
qbc:
はい。
松山和子:
そこから半年間ぐらい何にもしてなくて、私何して生きていこう?っていろいろ考えてたんですよね。
そんなときに、例えば自分の起業プランみたいなのを応募できるとことかあるじゃないですか、公募っていうのかな。ビジネスプランを募集しますみたいなところがあったりしたので、いくつか出したりとかして、落選してましたけど。ただ、そういう中で自分の思いがだんだん明確になってきたので「じゃあ自分でやろうかな」ってことで立ち上げました。
qbc:
なるほどね。なんかすごい繋がりがわかりました。
松山和子:
本当ですか。よかったです。
qbc:
なんというか今のお仕事にすごい繋がってる部分がたくさんあったので。
松山和子:
うん。私の会社名がリュミエールって言うんですけど、フランス語で「光」っていう意味なんですね。これにはあなたを光輝かせたい、つまり私がサポーターになって輝かせたいんですよっていう意味と、もう1個、あなたの光<希望>でありたいっていうのがあって。「障がい児、障がい者の希望として私頑張りますね!」っていう思いも込めているんです。
qbc:
ありがとうございます。現在に戻ってくるような感じになると思うんすけど、人生の転換点を置くとしたら、どこに置けると思います?
松山和子:
やっぱり病気を発症したことですかね。
qbc:
当時の年齢をお伺いしてもいいですか。
松山和子:
えーっとね、40ぐらいかな。40、40とか41とか。
qbc:
ストレスでわかったんですかね。
松山和子:
原因って不明なんですって。これが原因っていう例えば遺伝的要素があるとか、ストレスが原因だとかいろんな説があって、ただストレスが起因になるとは言われましたね。
ただ、実はうちの場合、母も統合失調症で薬を飲んでるんですよ。私と同じく服薬をしていれば全然普通の生活を送れるし、困ってはないんですけど。そういうのもあってちょっと遺伝傾向はあるのかなって思ったりもします。うん。
qbc:
なるほどね。わかってどうでした?このとき。
松山和子:
1回目に分かったときは、まだ自分はいつか治るって思ってたんです。障がいなんていつか治る、別にって。だけど2回目に発症したときに、もうショック過ぎて。そのときにたまたま元の旦那から「再婚することになったから、もう一切の連絡を断ってくれ。」って言われたんですね。
それまでは年に1回だけ娘の誕生日のときに、写真を送ってもらってたんですけど、それさえも拒絶されてしまったんです。いつか会えるから!っていう思いでそれまでずっと頑張ってきていたので、それこそ自分が生きてる意味とか価値とかわからなくなって、本気で死のうと思いました。
qbc:
うん。
松山和子:
本気で死のうと思って1ヶ月ぐらい毎日確実に死ねる方法を朝から晩までネットで探してましたね。
qbc:
おいくつの時ですかね。
松山和子:
それが45ぐらいかな。45、46ですかね。
qbc:
うん、うん。施設でストレスを受けたときですかね。
松山和子:
再発した後、鬱の状態の時ですね。死のうと思ったのは。
qbc:
うん。再発したときっていうのは、働いてたときですか?
松山和子:
働いてたときに再発して、再発するとですね、躁転って言って1回上がるんですよ。テンションが上がって、下がって復活しかけたときぐらいが一番しんどかったんですね。
qbc:
うん。
松山和子:
ちょっと体も動いてきて、これからどうしようって考えてたときに、旦那からのその一言を言われて「もう私生きていく意味ないわ。」って思って、本気で死のうって思いましたね。
qbc:
うん。うん。
松山和子:
正直、「なんで私だけ」って思いましたよ。なんで私だけこんな辛い目に遭うのって。
qbc:
なんで持ち直したんですか、それは?
松山和子:
あのね、たまたま朝から晩まで「確実に死ねる方法」を探してるときに、自死をされた方のご家族の手記みたいなものをネットで見たんですよ。
その「自殺」とかで検索してるから、それがたまたま引っかかってきたと思うんですけど。それを読んだときに、今もう既に、散々親にも家族にも迷惑かけて心配もかけてるのに、自死しちゃったら、こんなに家族に迷惑っていうか、一生辛い思いをさせ続けるんだって思って。もうこれ以上辛い思いをさせたくないなって思ったので、生きようって思いました。
私は、元々鋼のメンタルを持ってるので、生きるって決めたら「じゃあどうやって生きる?」って自分に問いかけて、「笑って生きていきたいよね」って、「楽しんで生きていきたいよね」って思って。「そのためにまずできることは何だろう」って考えたときに、「障がいをオープンにして私らしく生きていこう」ってことだったんですよね。
qbc:
ありがとうございます。
松山和子:
はい。
未来:「元気ないから、ちょっと松山和子に会いに行く?」みたいな感覚で会いに来てほしいなって思って。
qbc:
未来について、この後の人生10年20年、その先へと、寿命で自分が死ぬっていうところまでイメージしてどんな未来を思い描けますかね。
松山和子:
私は本当に、死ぬ直前まで働いていたいんですね。
qbc:
うん。
松山和子:
結局何ていうのかな。「なんでそんなに一生懸命になれるの?」とか、「なんでそんなに人のサポートができるの?」って聞かれるんだけど、理屈じゃないんですよね、これ。なんか言い方悪いけど、なんか変だけど、苦しんでる子どもの達の心が見えるというか、要は自分が苦しい子ども時代を送ってきたから、そこに共感しちゃうんですよね。
qbc:
うん。
松山和子:
それだと自分が苦しいままなんです、その子達見てると。
qbc:
はい。
松山和子:
その子達が笑顔になってくれると、私も救われるんですよ。相手のためにやってるようで自分のためにもやってることになるので、だから別にそんなすごい「人のために人のために」なんて思ってないし。だから、本当にちょっとでも1人でも多くの人を笑顔にできたら!って思ってますね。
qbc:
うん。うん。どうやって笑顔にしたいとかってイメージあります?
松山和子:
私野望があってですね、会いに行けるパワースポットになりたいんですよ。(笑)
「今日なんかしんどいよね」っていう時に、「ちょっと松山和子に会いに行く?」みたいな感覚で会いに来てほしいなって思って。例えばいついつ講座やってますよみたいなのあったら、「ちょっとなんか気分落ち込んでるからさ、今度あの講座行っとく?」みたいなそういう感覚で来てほしいなって思っていて。
障がい児ママたちが気軽に集えるカフェっていうのも今ちょっと計画をしていて、そこにはちょこちょこ顔を出したいなって思ってるんで、「あそこに行ったら松山和子いるからさ、ちょっと一緒に笑おうよ!」みたいな、そういう会いにいけるパワースポットになりたいんですよね、はい。
qbc:
なるほど。そうすると場所を作りたいとか、何か作りたいっていうか物として残したいみたいなそういうのあったりします?
松山和子:
そういうものっていうか、カフェはいろんなところに作りたいなって思ってます。私はあっちもこっちも顔は出せないけど、同じような志を持ってる人もきっと探していけば、出会えると思っています。そういう人たちが別に私の傘下じゃなくてもね、多様なカフェがいろんなとこにできたらいいなって思うし、そこへのアドバイスとかお手伝いとかはさせてもらおうかなって思ってるし。
なんかモノを残すというよりは、環境を整えていきたいですよね。
qbc:
うん。うん。もしもの未来の質問っていうのをしていまして、この無名人インタビューではですね。もしも、願いが1個だけ変えられるんだったら、叶えたい願いってなんですか。
松山和子:
娘を抱きしめたいですね。
qbc:
何歳になった娘さんですか。
松山和子:
何歳でもいいんですよ。生きている間に、娘を抱きしめられたらもうそんなに嬉しいことはないですね。
qbc:
うん。うん。どこに住んでるかわかんないんでしょうか。
松山和子:
熊本です。
qbc:
連絡はしないけど住所とかそういうのはわからないんでしょうか。
松山和子:
一応把握はしてますけど、そっからもし引っ越しちゃったりとかしてると、わからないですね、再婚するとか言ってたから。そうなると、わかんないですね。
でも私がSNSとかで発信してるのは、今まだ娘が12歳なんですけど、これで何年後とかに、いろんなものをインターネットで探せるようになりましたってなったときに、私そこで見つけてもらえるような存在になりたいなと思って。
qbc:
うん。うん。
松山和子:
「ひょっとして、これママじゃないの?」って思ってもらえるようになりたいなって思ってます。娘がもしね、会いに行きたいって思ってくれるときが来たとしたら、「えっ、こんなママ嫌なんだけど。」って言われたくなくて。会ったときに「ママの子でよかったわ!」ってやっぱり言ってもらいたいから、そこまでは輝いていたいなと思うし、頑張りたいなとも思うし、って感じですかね。
qbc:
何歳のとき別れたんですかね。
松山和子:
3歳です。3歳で離婚して別れたときから一切会ってないです。
私が病気だったこともあって、病気が故なんですけど、いろいろやらかしたこともあって「最悪な嫁」とか「最悪な母親」って思われてるんです。旦那の一族から。だから会わせてもらえなかったんです。
qbc:
なるほどね。はい、わかりました。
子どものためにっていうこととかその障がいっていうことが、なんか最初言われたときは全然わかんなかったんですけど。今お話を聞いて長い人生なので60分で聞ききれないけども、私の中では納得ができました。松山さんが今の仕事をされてるっていう意味がね。
松山和子:
この起業を決めたときに実は私の過去が全部繋がったんですよね。1つに。辛かった人生も、学校の先生やってきたことも障がい児支援やってきたことも、全部が本当に球体のように1つに全部繋がって、そのときに「これは私の使命だ」って本当に思ったんですよ、心の底から。
qbc:
うん。
松山和子:
これ、私がやらんで誰がやるの?って。他にやれる人なんかおらんでしょう、って思って。そう、だから何の迷いもないし不安もないし、って感じですね。もうお役目って思ってます。
qbc:
直近で今一番やりたいことは今の事業の中で、これやろうっていうようなものはありますか。
松山和子:
直近だと、やっぱり私は支援コンサルやりたいですね。支援が本当に好きでしょうがないので。
qbc:
施設支援ってことですよね。
松山和子:
そう。施設でもいいし、子どもでもいいんですけど、子ども単体で仕事を受けると高くなっちゃうんですよね。だから施設にしてるっていうだけで、施設だったら補助金サポートも多分得られると思うし。
やりたいっていう人がいれば全然やりますけど。
qbc:
うん。うん。ありがとうございます。最後の質問は、最後に残したい言葉っていうもので、遺言であってもいいですし、読者向けのメッセージでもいいですし、独り言みたいになってもいいし、最後に残したことがあればお伺いしています。
松山和子:
希望があったら人は生きていける。
qbc:
以上ですか?
松山和子:
はい。
qbc:
はい、ありがとうございます。
Lumière(official)
あとがき(編集)
松山さんの底知れぬパワーはどこから来るのか、と思いながら編集しておりましたMeadowです!人生の点が一本の線で繋がるというのはスティーブ・ジョブズの有名なスピーチにもありますが、まさにそんな体験をされたのでしょうね。使命に気づいた人はブレない。その輝きの眩しさが伝わってくる60分でした。ご参加ありがとうございました!
【インタビュー:qbc】
【編集・あとがき:meadow】
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