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ドーナツ柄のコップへの執着がやめられない私なりの人生の進め方


少し前にも書いたかもしれないが、発達障害の可能性を示唆された。
ほんの1時間程度話しただけの初対面の他人に、いくら専門家とはいえ私の何がわかるんだと少しムカついてしまった。
ムカついたのはその専門家の言っていることが100%否定できるとは言えないくらい心当たりがたくさんあるからで、もしかしたら自分でもうっすら思っていたことをズバリと言い当てられた悔しさでムカついてしまったのかもしれない。

私の人生、割とうまくいっている。
うつと言われ休職してもなお、割とうまくいっている。

勉強は嫌いじゃなかった。できないできないと言いながらも、集団の半分より上はキープできた。全科目で半分より上ができなくなったら、1教科だけ断トツの1位を取って他の科目をやり過ごすことができた。
友達も居なくはなかった。私が相手のことを友達だと思うかどうかは置いておいても、移動教室で一緒に廊下を歩いたり、休みの日に遊びにいったりご飯を食べたり、成人してからお酒を飲みにいったりする程度の人間関係は築けている。
リーダーになることもあった。とくに中学生までは大人からリーダーを任されることも多く、頼まれたこと以上の働きをしていたと褒められることもあったし、その自負もあった。

社会人になるまでの大きな挫折はたった2回。
一つは、中学2年生で英検三級を受けて落ちたこと。
もう一つは、高校の部活で全国大会に行けなかったこと。

それ以外の、受験も就活も、一校一社しか受けず確実に仕留めてきた。

社会人になってからだって、先輩から仕事を任せてもらえたし、生徒とも良い関係を築けていた。


だから、私の人生、割とうまくいっていると思う。


だから多分、ムカついたんだと思う。
自分の心の中にうっすらと居座っていたどうしようもない衝動性や脳内で言葉がとっ散らかる多動性、聞こえすぎる聴覚や、人並外れた感受性、エピソード記憶力、どの集団でも受け入れてもらえるくせに決まって「チヅってちょっと変だよね」の声。それらが‘普通じゃない’かもしれない可能性。でも‘普通’でいるという自負と時々覗く不安。
それらを“発達障害の可能性がある”の一言で言い当てられた悔しさ。
これまでの人生、生きづらいと思ったたくさんの瞬間を全部飲み込んで割とうまくいっていると言い聞かせた自分の人生を“発達障害が原因でさまざまな場面で二次障害が現れている”と言われて、これまでの人生の捉え方をひっくり返されたような悲しさ。
多分それら全部が押し寄せて、ムカついたんだと思う。

ずっと普通じゃいられなかった。
姉が12歳のとき、姉は叔母から陶器のマグカップをプレゼントされた。その時叔母が持ってきたマグカップは3種類くらいあったのに、姉だけが特別に一つもらえて、私は誕生日じゃないからと貰えなかった。
私が12歳になったとき、少し期待したけれど、私は何も貰えなかった。
今になればわかる。あの時はたまたま叔母が陶器市に行った帰りで、たまたま誕生日の姉がいたからプレゼント代わりにお裾分けしたのだと。
でもあの時の私は、12歳の誕生日になったら陶器のマグカップが貰えるものだと思い込んでしまった。
だから、私は自分の、自分専用のマグカップが欲しかった。
ずっとずっと、自分専用のマグカップが欲しいと思いながら、家族供用のマグカップを使っていた。

高校生のときに母の実家から出てきたドーナツ柄のマグカップ。
母が「これ使えば?」と私にくれたマグカップ。
手にしたときにやっと、自分専用のマグカップができた、と思った。
だから、ドーナツ柄のマグカップを家族が使うと猛烈に怒った。箸や皿は自分のものを使われても怒らないのに、ドーナツ柄のマグカップだけは心から怒った。不機嫌になった。
だって、姉のマグカップは姉しか使わないんだもん。私だって、私専用のマグカップは私だけが使いたいんだもん。
そう言って何度も怒った。今も怒ってしまう。


自分の作った些細なルールやこだわりに縛られている。
発達障害の疑いと言われてから、これまでの人生で起こった色々な点が全て繋がってしまった気がする。
「変わってるね」と言われ続けてきたこと、教室のざわめきに耐えられなくて泣いたこと、鞄の底のレシートを見て3年前のある一日の行動を全部思い出せたこと、文章を書いても書ききれないくらい溢れてくる感情、ドーナツ柄のマグカップに対する尋常じゃない愛着。
些細なことも大きなことも、本当は起こった時点で感じるべきであったであろう違和感が、今になって線として繋がったような気がした。

今、自分自身の行動も、些細なことで(これって…)と思うようになってしまった。
その時の思いつきで作る料理とか、深く考えずに切った髪の毛とか、ガムを買おうとコンビニに入ったはずなのに1000円以上使ったときとか。
ほぼ全ての言動を結びつけてしまう。いや、結びつけようとしてしまう。

気にしないこと”をとても気にしてしまっている。

これまでの人生、割とうまくいっていたはずじゃないか。
発達障害の可能性ありと言われるまで、人生に納得がいっていたじゃないか。

これまでの足跡を自分で踏み躙っていると思う。
必要以上に線を引いて、これまでの自分の行動をカテゴライズしている。
些細な選択肢すら何度も立ち止まって考えてしまっている。

“発達障害の可能性がある”は、あくまでも可能性の話。
広汎性発達障害は0か100かではなく、1〜99までの範囲で、誰もがもつ特性の強さがどれくらいかを示して一定の強さを超えたときに診断されるイメージだと、特別支援教育の一線で活躍された先生に教えてもらったのに。
今の私は、全てを0か100かで気にして、考えて、カテゴライズしてしまっているじゃないか。

たった一言で、私は私のこれまでとこれからの選択肢の全てを否定しようとしてしまっているじゃないか。


割とうまくいってきた人生。

私が私にした客観的評価は間違ってないと信じている。
でも、間違っていたのではないかと不安になるくらいには揺らいでいる。
ただ、“発達障害の可能性”という言葉がなければ、こんなにも不安にはならなかったと思う。

私は私という人間を20数年生きてきて、それでやっと確信を持った評価を、
1時間しか話していない見ず知らずの他人の言葉で簡単に揺らがせるような、日和った人間ではいたくない。
1時間の対話より、20数年の行動と実績。
そちらを信じて生きていたい。

割とうまくいっているの中には、うまくいかなかったことも、悔しかったことも、泣いて泣いて泣きまくったことも、死にたくなった日のことも、全部含まれて、
それでも私は割とうまくいっているとまとめられる人生を送っているのだから。


◯(えん)には始まりがない。

ドーナツ柄のマグカップは私の特性を証明するために存在するんじゃない。
ドーナツ柄のマグカップは私の発達障害の可能性をより高めるために存在するんじゃない。
ドーナツ柄のマグカップは私が母からもらった大切なマグカップ。

私はそうやって自分を納得させて、これからも生きていたい。
“気にしないこと”を気にしないで生きていたい。

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